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日本史人物伝 No.237~239

No.237 向山黄村

1826(文政9)1月13日~1897(明治30)8月12日

読み:むこうやま・こうそん

姓:向山(むこうやま)

諱(いみな):一履(かずふみ)、栄(さかえ)

通称:栄五郎(えいごろう)、隼人正(はやと・のかみ)

字(あざな):欣文(きんぶん)

号:黄村(こうそん)

性別:男

出身地:江戸

江戸末期の旗本。漢詩人。


No.238 一色真浄

?~1826(文政9)1月13日以降

読み:いっしき・さねきよ

姓:一色(いっしき)

諱:真浄(さねきよ)

通称:仁左衛門(にざえもん)

性別:男

出身地:江戸

江戸後期の旗本。向山黄村の実父。


No.239 千坂廉斎

生没年不詳

読み:ちさか・れんさい

姓:千坂(ちさか)

諱:不明

号:廉斎(れんさい)

性別:男

出身地:不明

江戸後期の幕臣。儒学者。古賀精里(こが・せいり)の門人。


向山黄村の生涯

旗本の一色真浄(いっしき・さねきよ)の三男として江戸に生まれる。

父の仁左衛門も、潤沢な学才と広い見識を備えた人物であったという。

幼少の頃より利発な人物であったらしく、その才覚を見込んだ幕臣の向山源太夫(むこうやま・げんだゆう)の養子に迎えられた。

千坂廉斎(ちさか・れんさい)の門人となり、昌平坂学問所に入って学問の研鑽を積んだ。

台頭して教授方出役となる。

箱館奉行支配組頭(はこだて・ぶぎょう・しはいくみがしら)に就任した、養父の源太夫に伴われ同地に赴く。

1856(安政3)樺太への主張からの帰途、養父の源太夫が宗谷で没すると、黄村は家督を継ぐとともに、箱館奉行支配調役(しはいしらべやく)として召し出された。

1859(安政6)には、養父の職でもあった箱館奉行支配組頭となり、樺太まで足を運んで測量を行い、居合わせたロシア人たちと交渉を行っている。

1860(万延元)表御右筆ついで奥御右筆。

1861(文久元)外国奉行支配組頭となり、対馬(つしま)に出張した。

1863(文久3)5月、幕臣の水野忠徳(みずの・ただのり)の知遇を得て、御目付となる。

その直後、老中格の小笠原長行(おがさわら・ながみち)に従い、約1500の兵を率いて、大坂に上陸。

尊攘運動の抑圧を図ったが、朝廷の非難を招き失敗。

免職・差控に処せられた。

1864(元治元)9月、目付に再任。

 1865(慶応元)閏5月、14代将軍:徳川家茂(とくがわ・いえもち)に従い、大坂に赴く。

同年9月、兵庫開港を外国に回答した阿部正外(あべ・まさと)と松前崇広(まつまえ・たかひろ)に対し、朝廷は老中罷免・官位剥奪・国許謹慎を命じた。

これを人事干渉とみて反発した幕府は、将軍の辞職と江戸帰還を決定。

向山は、命ぜられて辞表の文を作った。

その後、徳川慶喜の周旋により、辞表が撤回されたのち、目付を罷免された。

1866(慶応2)10月には、外国奉行となった。

1867(慶応3)1月、徳川昭武(とくがわ・あきたけ)に随行してパリに渡り、ナポレオン3世にも拝謁した。

同年5月には、駐仏公使に任命され若年寄格に進んだ。

フランス政府は、5年間留学の予定であった徳川昭武や他の留学生の指導と教育をメルメ・カションに担当させる予定であったが、向山は、これに大反対した。

理由は、カションが神父であることと、その性格(小人・佞人とも言われていた)であった。

教育係から外されたカションは、突然「日本は一種の連邦国家であり、幕府は全権を有していない」という論説をパリの新聞に寄稿。

この論説をフランス政府も無視できず、結果として、小栗忠順(おぐり・ただまさ)が成約した、フランスからの600万ドル借款が取り消されてしまっている。

上記のような経緯で、幕府の地位を軽視し始めたフランス外務省と対立し、後任の栗本鋤雲(くりもと・じょうん)に事務を引き継ぎ、12月パリを出立した。

香港で戊辰戦争の勃発を知る。

1868(慶応4)2月帰国。

同年3月に、若年寄に進められるも辞任。

その後、旧主の徳川家達(とくがわ・いえさと)に随従して静岡に赴く。

府中(駿府)と呼ばれたこの町を「静岡」と命名したのは向山である。

向山は静岡学問所頭取に就任し、後身の教育に励んだ。

学問所が廃校となった後は東京に移り、世を隔てて日々を送った。

向山の漢詩に「先朝の白髪に遺臣あり、世を遁れ優游す。寂寞の浜、樗櫟は同く迎う新日月。予樟は尚お見る旧精神……」というものがあり、徳川を先朝とみて、これに殉じようとの態度であった。

過去を語ることを好まず、骨董を愛した。

杉浦梅潭(すぎうら・ばいたん)らと共に、晩翠吟社(ばんすいぎんしゃ)を創立し、詩作に余生を費やす。

六千七十余首の作品があったという。

『氷川清話(ひかわせいわ)』によると、勝海舟は、向山の人となりに高い評価を下していた。

旧幕臣による『徳川氏実録』の編纂が計画された際、勝海舟は、向山に資金を与えて関係者を訪ね歩かせ「実録編纂が、反政府活動と取られかねない。」と説得し、これを妨害させている。

結果、この計画は頓挫した。

著作に『景蘇軒詩鈔(けいそけんししょう)』『游晃小草(ゆうこうしょうそう)』がある。

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