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女医になった歌姫、語る(抜粋9)

                  ( cocoparisienne 様 画像提供)

皆様、お元気でお過ごしのことと思います。
お陰様で小説『音庭に咲く蝉々』の断片紹介もすっかり
定着し、多くの方々にご覧いただいております。

前回は天才ギタリスト時原敬一が曽祖父・鏡月と再会し、
また西行法師らしき幻影も出現、夢幻空間の中で時空を
超えた隔世の儀が行われました。

その直後、ケイ(時原敬一)は忽然と姿を消し、18年にも
及ぶ失踪を遂げます。その秘密を知る人物、かつての歌姫・
鮎川舞子は医学部に進学し、現在はクリニックの女医に………。

僕(フジ)はケイと舞子が恋仲だったことさえ知らず、今、
衝撃的な告白を受け止めることになります。

herbert2512 様 画像提供


 クリニックの女医、かつての歌姫・鮎川舞子がついに自分の過去を語り始めた。僕はただその告白を静かに受け止めた。
「石夢野の歴史というか、時原家の怨念みたいなものに操られたような感じがした。だから、それがトラウマみたいになって、時々フラッシュバックすることもあった。その謎めいた神秘耽溺と背徳的悦楽がミックスされた異様な精神症状を克服するために、私は医学部へ進んだ…………、といっても過言ではないよ」
「そういうことだったのか、知らなかったよ、まったく何も・・・・」ケイと舞子が恋仲だったことを知り、僕はほとんど放心状態になった。
「要するに、自分で自分を治そうと思ったのね。ケイは何かと言えば、すぐに無や空を論じたがるけど、わたしは逆に〈有〉に執着したかった。生物的な意味で人間存在とは何か、肉体の諸反応はなぜ起こるのか、〈在る〉ということを極めてみたくなった。それが医学への道だった」鮎川舞子はティーカップを持ち上げかけて、紅茶が飲み尽くされた器の底を見てから、また元に戻した。堅い音が室内に響いた。

「それで自分を治すことができた?」遠慮深く、僕が尋ねた。
「人って、環境を変えると、けっこう精神も変わるんだよ。私は医学部に入って、物質的側面から徹底的に人間を観察し直すことで、自分を癒していった。つまり、ケイは生殖期のオスであり、私は生殖期のメスであり、本能的に生物として反応したにすぎない……………、と。それ以外に一切何の意味もない……………、と。そう考えることによって、縛られていた精神を楽にしていった。実際、大学に入ってから複数の恋愛を体験した。それは誰もが経験することだと思う。そして、私は自分を文学的に美化する癖を完全に殺ぎ落として、自己治癒していった。そういう意味では、東京の生活は快適だったよ。何も問題がなかった。ところが、ある日、事件が起こった。大学を卒業して、都内の総合病院に勤めはじめた頃だった。初夏の夜、仕事を終えて帰ろうとしたとき、病院の裏の通用門にひとりの男が座り込んでいた。痩せこけた浮浪者に見えた。通り過ぎようとしたとき、その男と視線が交わった」
 
「その男は… 」希望や絶望が入り交じって、ある種の予感が走り、僕の言葉はひどく嗄れた。


OpenClipart 様 画像提供



「ケイだった。薄汚れた黒い服を着て、髪は茫々、かなり衰弱していた」彼女は言葉を切り、立ち上がって紅茶を入れ直した。その間、僕は何も言葉を発することができなかった。ただ、衰弱したケイの姿を思い浮かべていた。
「たった一秒で、私は昔に引き戻された。科学的にしか物事を考えない習慣が続いていたのに、今まで努力して自分を自己修正してきたのに、ケイに会った途端、すべてがブッ壊れた。私は、ケイを抱き起こして、自分のマンションに連れて帰ったの。そして、自分が知る限りの医学的処方を行って、どうにか彼が健康体に戻るまで見守った。何故そうしたのか、今でもよくわからない。医師としての使命感? 違うね。それなら、病院のほうへ運べば済む話。結局、私は時原家の運命から逃れられなかったんだと思う。体力を取り戻したケイは、ぼんやりとした遅い口調で、失踪後の風景を断片的に語りだした」
 
「失踪後の風景?」
「そう。水辺の風景を彷徨っていた…………………、曾祖父の華道家・時原鏡月と和歌僧・西行法師が何度も手招きするのに、その方向へうまく進むことができなかった…、いつのまにか正体不明の不思議な人物に招かれて、長い長い海岸線をずっと歩き続けていた・・・・、どこか遠い異国の港町を歩いたり、何世紀か判らぬ時代の奇怪な村も通り抜けた・・・、禍々しい魑魅魍魎たちに取り囲まれることもあった・・・、歪んだ時空の中、血まみれの武士に急襲されることさえあった・・・、京の御所で上級武官・源頼政と話すこともあった・・・・、皇族・高倉宮以仁王が隠れ住んでいる大内宿へ向かった・・・・、山奥の草庵でひとり和歌を詠むこともあった・・・・、六角堂頂法寺で立華を生けた・・・・、時空は捻じ曲がり、今が何時なのか、ここが何処なのか、次第に曖昧になり………………、それはまるで醒めることの許されない迷宮的な夢空間のようだった…………………、と」

「醒めることの許されない迷宮・・・・、正常な時空ではなさそうだね」
「そう、歪んだ時空。そして、気がついたら、見知らぬ街の病院の裏門に座っていた…、と。そして彼はこう言った〈ここは何処なんだ、ライヴはどうなった?〉それを聞いて、私は思ったよ。ああ、少なくとも、ケイの意識の中は時間が止まったままで、たぶん、まだライヴ直後から感覚が麻痺しているんだろうなって。事実、ケイは失踪してからの十数年間の日常体験をほとんど記憶していなかった。少なくとも、わたしたちが通常認識している一般的な時間軸に沿った生活や、その暮らしに伴うような記憶がケイには無かった。もちろん当初は精神科の先生にも相談したけど、いわゆる解離性同一性障害とはちょっと何か違うとのことだった。統合失調症でもない。採血だけは何とかケイが許してくれたから、基礎的な項目は解析できた。ドーパミン、セロトニン、アドレナリン、その他、神経伝達物質の異常も見られない。腎機能、肝機能も異常なし。コレステロール値が低いのは、栄養失調傾向。それも徐々に平常値へ戻った。本来であれば脳波の測定もやるべきだったとは思うけど、ケイの問題を現代科学の合理主義で分析するアプローチは、どこか間違っているように感じたし、ケイ本人は冷静沈着で、心に乱れは無かったからね。彼には所持品らしきものは何もなくて、黒マントの内ポケットに…」鮎川舞子は急に言葉をとめて、最後にもう一度、念入りに相手の人格を確かめるような厳しい視線で僕をまさぐった。いまだかつて、これほどまでに厳しい視線を僕は受けたことがなかった。
 そして、彼女は軽く頷いた後、納得した様子で告白を続けた。
 
「黒マントに内ポケットに、ミイラ化した小白猿が入っていた」
「それだ!」僕は興奮して腰を浮かせ、思わず絶叫してしまった。
「私も驚いたよ、ほんとに。ケイはその小白猿を異常とも思えるほど大切に扱っていた。そして、自分の命はもう永くないだろうから、預かってくれと言った。私はもう何が何だかわからなくて、とにかく、その小白猿は何なのか、ケイに説明を求めた」鮎川舞子は潔く立ち上がって書棚のガラス戸を開くと、事務用のA4ファイルを取り出して、その一部を読み上げた。

                          つづく


✨『音庭に咲く蝉々』菊地夏林人


 



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