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日本人はどこから来たか:最新遺伝子解析 〜東の果ての新し物好き〜

近年の自然科学知見の集積により、考古学や古代文献学では解き明かすことができなかった「日本人の成り立ち」が明らかとなってきている。柳田の視点から解説する。

極東へのホモサピエンスの移動(第一期)

ホモサピエンスはアフリカ大陸東部で10万年以上前には進化分岐しており(アフリカ単一起源説)、原人・旧人から遅れて出アフリカしている。先住のネアンデルタール人との若干の混血の後、北へ移動しヨーロッパへ行く群と東ユーラシアへ行く群とに分かれる。東ユーラシアへと進む者たちはさらに東を目指しながらデニソワ人とわずかに混血したりして、ヒマラヤを南下して東南アジアへと進む群と、ヒマラヤを北上して北東ユーラシアへと進む群とに分かれた。

進化とは、DNAからなるゲノム情報上にランダムな変異が発生し、生体機能をわずかに変化させながら、環境に適応して少しずつ変化していくことである(化石や現生態系からは急激な変化に見える)。これは、ある生物種が変化する環境(自然災害・感染症を含む)に柔軟に適応して生き残るための上手い戦略である。

ヒト族は二足歩行の獲得により、省エネルギーで「生き残れる遠くの別の環境へ移動する」能力を得て、世界中へ拡散することとなった。そして、黒人、白人、アジア人と大まかに進化分岐しつつも万年単位で居住地域を移動することになる。

そのため、古代人の骨内ゲノムを調べることで、どの地域の民族がどこへ移動し、どの遺伝的民族と混血もしくは乗換(支配・虐殺・感染症)が起きたかを現在でも調べることができる。

4万年ほど前、氷河期の日本列島は島ではなく、北部は大陸と地続きであった。樺太からマンモスなどの食料を求めて南下して来たグループが琵琶湖周辺までやってくる(旧石器時代)。朝鮮半島からも、現在よりも圧倒的に狭い海峡を渡った民族もいたと思われる。一方、東南アジア由来のグループが海を北上して沖縄(港川人など)から鹿児島までやって来ているが、南九州の火山の噴火により絶滅したと推測される。

縄文人の時代

2万年前に氷河期が終了して温暖化傾向に移り、氷河の水が溶け、海面が上昇して日本は島となる(縄文海進)。こうして1万年以上、他の世界から隔絶された日本列島ではゲノムが均一化された民族「縄文人」が形成される。

温暖化により針葉樹林から広葉樹林へと変化し、マンモスは絶滅し、縄文人はシカやイノシシを狩るようになる。海に近ければ、貝や魚を採取する。また、ドングリなど木の実を採集・貯蔵し、土器で煮てアクを抜いて食するようになる。時代の名前となった縄文土器は世界最古の土器である。

1万年前、世界は1300年続くヤンガードリアス(Younger Dryas)という急激な気温低下期(亜氷期)に入り、その後は緩やかな亜間氷期へと転じていく。獲物が取れないこの亜氷期をきっかけとして、生き抜くために中東地域で農業が始まり、世界中に普及していく。農業は食供給を安定させて人口増加に繋がるものの、気候のわずかな変動で凶作になると、増えた人口を支えきれずに餓死者を出してしまう。

そこで、安定した食物管理のために人民を統制し、法を作り、税金徴収をするような「国家」が生まれてくる。税金によるインフラの整備は王墓築造という公共事業や軍隊整備に使われるようになる。こうして5000年前から3000年前にかけて、ナイル川、チグリス・ユーフラテス川、インダス川、長江、黄河といった巨大河川路に「文明」が生まれてくる。短期的気候変動による凶作のたびに、戦争による略奪・支配が繰り返されることになり、各民族は混血していく。

一方、海で隔絶された日本は、そのような混乱はなく、平和であった。同じく山脈で隔絶されたチベットもそうであった。遠く離れた日本とチベットの人々に共通する遺伝子型があり、後にセム系と呼ばれる黒髪・黒目の古代ユダヤ人と共通していることがわかっている(日ユ同祖論ではない)。おそらくユーラシア大陸に広がった縄文人の祖先たち(チベット人と古代ユダヤ人の祖先でもある)は絶滅したと思われる。

縄文時代は新石器時代で、より精細な道具が使用されていた。竪穴式住居を住まいとし、集落の中央に墓を置いた。三内丸山遺跡に代表される大型掘立柱建造物のようなものが建てられるようになる。縄文時代中期になると火焔式土器や勾玉といった独特の装飾品が作られるようになることから、平和的な独自文化を形成していた。栗の栽培、焼畑農業(蕎麦、稗、粟など)、稲作(畑栽培:陸稲)も行うようになる。

縄文時代初期は東北・関東を中心とした人口分布であった。九州は7000年前の鬼界アカホヤ噴火で壊滅的ではあったが、日本列島西部の気候が良くなってきたことにより、獲物を追って九州の方まで縄文人達は徐々に南下してくる。しかしながら、寒冷化の影響を受けて人口は減り続けていた。

アムール人の日本列島への移動(第二期)

紀元前10世紀の縄文時代晩期に、九州北部で本格的な水田稲作が始まる(板付遺跡、菜畑遺跡)。水田は画期的な農業テクノロジー革命である。1年に米を2度収穫する二期作、米の後に麦を栽培する二毛作が可能であるため、穀物生産が倍増した。青森での最古稲作跡(砂沢遺跡)は紀元前3〜4世紀とされているため、本州北端まで稲作が広がるのに600年ほど要したことになる。

この時、東アジアでは黄河と長江の2文明が戦争を起こしている時代で、その戦乱をくぐり抜けて朝鮮半島経由で日本へと海を渡ってくる民族がいた。古くは黄河流域の漢民族と考えられていたが、遺伝子解析の結果、北東ユーラシア大陸のアムール川(黒江)流域で進化した民族であった。アムール人の流入期は、中国大陸の初期王朝である夏、商、周の時代(紀元前10〜3世紀)に渡ると考えられている。

この民族と縄文人の混血が弥生人である。縄文人は目鼻立ちのはっきりした浅黒く毛深い民族であったが、アムール人は極寒の環境に適応進化し、目鼻立ちの浅い色白の毛の薄い民族であった。通常、農耕を持ち込んだ民族は狩猟採集民族の遺伝子を圧倒するが、弥生人の遺伝子情報は縄文人とアムール人半々であることから、かなり平和的に混血が進んだと考えられている。縄文人の遺伝要素の強いグループは10世紀ごろまでは東北地方に点在した可能性があるが、のちの古墳人やアイヌ人により混血もしくは絶滅させられたと考えられる。

現在、アムール人の遺伝子は朝鮮半島の人々からは見つかっていない。また、アムール人は縄文人と同じく狩猟採集民族であったため、水田稲作が彼らから持ち込まれたかどうかは不明な点が多い。稲の品種の一部や水田を作るために必要な土木技術が当時の朝鮮半島から見つかっていないことから、今後の研究結果を待たねばならない。

弥生人の時代

弥生時代は紀元後3世紀まで1000年ほど続く。土器は薄手のシンプルなデザインになり、最初に東京都文京区弥生で発見されたことから弥生式土器と名付けられ、縄文時代に続く新時代名となった。しかしながら、縄文土器と弥生土器、その後の土師器との間に年代的な明確な差はなく、また地域ごとに大きく土器のデザインが異なる。このため考古学における年代推定に誤差が大きく生じることとなっており、日本の古代史がなかなか決着を得ない原因となっている。

弥生人たちの文化様式は縄文人文化をある程度引き継いでいるが、違いも多い。最も大きな違いは「環濠集落」という城砦のあるムラを形成したことにある。生活する竪穴式住居を集めて外側に土を盛り、柵を立て、その外に堀を掘っている。収穫する作物を環濠内に保存しているので、外部からの害獣や盗賊の侵入を防ぐためである。当時の最新科学であった「農業」により、過酷だが平穏であった縄文時代と打って変わって、豊かだが争いの多い時代へと変化した。時と共に環濠集落は巨大化し、紀元後には佐賀の吉野ヶ里遺跡や奈良の唐古・鍵遺跡から判明しているように、集落内には市場があり、鍛冶屋などの各職業集団がいたことがわかっている。

世界の例に漏れず、農業により増えた人口に見合わない凶作にあうと、略奪が起き、ひどい場合はムラ同士で争い(戦争)が起きる。そうなると農具や狩具、調理用具でさえ武器になる。鏃(やじり)、鉾(ほこ)、剣といった武器が必要となってくる。弥生時代は青銅の鋳造により武器が作られていく。青銅は酸化して青緑色になる前は金色に輝き、その輝きから青銅剣を祭祀にも使用するようになる。弥生時代最大の青銅器遺跡は出雲の島根県荒神谷遺跡であり、青銅358本(祭事用)が見つかっている。

中国大陸では秦が滅び、紀元前206年に漢王朝が成立する。紀元前108年に、(前)漢の武帝は楽浪郡を現在の北朝鮮首都平壌付近に設置する。当時の日本は「倭」と呼ばれ、東夷(東の野蛮民族)の中の「委ねる人(腰の低い人)」との意味を持っていた。古代中国の夷人の呼び名は、「音」に沿って賤しい漢字を当てるため、当初は「ワ国」であったろうが、「倭」が当てはめられ、「倭国」として受け入れていたかもしれない。

倭国は複数の小国を形成し、覇権を争うようになる。特に九州北部の博多湾沿岸のある国は楽浪郡に使者を送って漢に朝貢し、倭国王の後ろ盾を得ようとする。紀元後57年に授与されたとされる金印「漢委奴国王」(伝志賀島出土:一般にナ国と知られているが、委奴は「イト」との解釈もある)や糸島市平原遺跡の大型内行花文鏡は、それを物語っている。

2世紀中頃は「倭国大乱」が起こり、これを治めたのが「卑弥呼」と魏志倭人伝に記された女王である。卑弥呼はヒミコであり、個人名というよりは「日巫女」という襲名であり、後に古事記・日本書紀(記紀)の日本神話内のアマテラスに神格化して組み込まれる。

239年ヒミコは帯方郡を介して新しく興った「魏」へ使いを送り、魏志倭人伝に記録が残ることになる。古代の北部九州には女王文化があり、前述の平原遺跡では巫女王墓とされる墓が見つかっている。邪馬台国は「ヤマト国(✖️大和国)」のことである。ヤマト国が九州にあったか、近畿(畿内)にあったかは別で語る

漢人移民の積極的受入れ(第三期)

糸島市平原遺跡からは「硯(すずり)」も発見されており、弥生時代後期には書簡のやり取りがあった可能性が考えられる。魏では儒教文学が隆盛するほど文字文化が発達しており、一部の漢民族知識人がイト国に入り、イト国から引き継がれた原初の大和朝廷も多くの漢民族移民を受入れたと考えられる。

第二期と同じく、東アジアは戦乱の世となったのが移民のきっかけになっている。4世紀にはヨーロッパでゲルマン人の大移動が起きている。これはアジア系騎馬遊牧民フン人からの侵攻によるトコロテン方式である。同じく東アジアでも5胡(北方・西方5騎馬民族)が西晋の内紛(八王の乱)に乗じて国を興していく。漢民族は胡民族から支配され、混血していくことになる。

この戦乱から逃れようとする漢人らが、倭国に流れ込み、弥生人と混血する。これが古墳人であり、縄文人15%、アムール人15%、漢人70%の遺伝子構成となり、現代人にそのまま引き継がれている。

漢人の遺伝子割合が多いのは、東アジアの歴史情勢や記紀の記述から鑑みて、漢人による弥生人侵略支配の可能性は低い。おそらく崇神天皇時代(4世紀ごろ)の感染症(疫病)により純弥生人が大量死したためであろう。ただし、現代の日本列島内では地域により遺伝子混合割合は異なっている。つまり、たかが1500年ほどの時間の中では、1万年以上による縄文人で起きた遺伝子均質化は起きていない。

古墳人の時代

3世紀後半から6世紀まで、円墳、方墳から始まり、西日本の前方後円墳、東日本の前方後方墳といった王墓(古墳)が作られた時代に入る。朝鮮半島の国々と同盟、侵攻を繰り返す政治闘争の時期であり、船を通じて倭国も世界と繋がるようになる。

まとめ

日本人のルーツを辿ると、過去に2度の移民を受け入れている。古代ユダヤ人やチベット民族と共通祖先をもつ縄文人との間に、3000年前にアムール人と混血して弥生人になり、さらに3世紀以降に漢人と混血して古墳人となり、現代日本人の遺伝的背景が確立した。アイヌ人は10〜12世紀ごろから北海道を中心に移住してきており、現在は日本国内の少数民族とされている。

1度目は水田稲作を中心とした農業と青銅器・鉄器技術が広まり、2度目は文字や政治体制など東アジア文明を取り込んでいる。縄文土器や高度な水田・古墳の土木技術、たたらによる比較的早い鉄器作成など、当時の海外にない芸術性や高度な技術が、単純に「移民による伝来」によるものとは説明がつかない。大陸とは異なる比較的平和な風土が「創作(オリジナル)」の余地を作っていたと考えられる。

古墳時代が終わると大量の移民との混血は起きていないが、仏教、律令制、鉄砲、西洋技術(産業革命)を国内に取り込む。地理上、「極東」と呼ばれる世界の果ての我々の国は、海により閉じられた鎖国環境の中で文明を発展させ、外部の新技術にも敏感な民族であったといえるだろう。

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