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世界の終わりと風呂でう○こ漏らした話

 う○こ、漏らしたことありますか?

 私はあります。よくよく考えてみると、これほど身近に破滅を味わう機会もないように思う。自宅ならばともかく公共の場でメルトダウンしようものなら社会的信用は地に落ちるし、事後処理の大変さを考えるだけで震えてしまう。あるいは大人になった今ならば笑って許してもらえるかもしれないが、これが多感な十代男女が集う閉鎖空間、学園生活の中で起こったとしたら……目の前が真っ暗になるほどの絶望を味わうはめになる。まさに世界の終わり。便意によるカタストロフだ。

 とはいえ生きているかぎり、我々は何度も窮地に立たされる。大抵の場合は未然に危機を回避しホッと息を吐くものの、時にはうっかりSSRを排出してしまうことがある。人生は長い。ガチャを引く回数だって多い。

 私が物心ついてからはじめて世界の終わりを体感したのは、幼稚園に通っていたころ。すべり台のうえでゲージが真っ赤になり、ほかのおともだちが建物に入っていくのを見送ったあと、さんざん迷ったすえに負傷兵のごとき足取りで戻っていった覚えがある。しかし不思議なことにその後どうなったかというのはスポンと抜け落ちていて、ああ、心を守るために記憶が消去されるという防衛本能は本当にあるんだなあと、今こうして書きながら気づいた次第である。

 それとは別に、詳細なところまで覚えている世界の終わりがある。それが二回目、小学生中学年くらいのころ。当時の私はさすがに母とは風呂に入っていなかったが、父とはたまにいっしょに入ることがあった。そしてよりにもよって、そういうときにかぎって悲劇は起こる。

 小学生男子というのはチャンスがあれば悪ふざけしたくなる生き物だ。父と裸の付き合いをしているのならばなおさらで、いっちょウケを狙おうと考えた私は浴槽の縁に乗り、おならをしようとした。あとは想像がつくと思うが、私の身体から放出されたのは気体ではなかった。ポチャンと落ちた。ここでトリビア、う○こは浮くときがある。

 父にめちゃくちゃ怒られたのは言うまでもない。お腹の調子が悪かったとか急に猛烈な便意に襲われたとかならまだ情状酌量の余地はあるが、ふざけて屁をしようとした結果なのだからお怒りはもっともだ。私が同じ立場だったら絶対に叱ったと思うし、そのあと風呂は父が掃除してくれたのだから、まだ優しいほうと言えるかもしれない。

 一方、母はもっと優しかった。クラムボンをぷかぷか浮かせた私を叱るどころか、苦笑いを浮かべながらも慰めてくれたのだから。幼い私は泣きながら感じたものだ。母という存在の偉大さを。

 しかし、である、話はここで終わらない。風呂での一件を忘れかけてきた数日後の朝、クラスの様子がおかしいことに気づく。なにやら私を見て、みんながクスクスと笑っているのだ。嫌な予感がした。そしてあろうことか、私の不安は的中してしまう。

「ねえ、風呂でう○こ漏らしたってほんと?」

 クラスメイトにそう聞かれたときの私の気持ちを想像してみてほしい。安心しかけていたところで訪れる世界の終わり。時間差の絶望。いったいなぜ、どこで、バレたのか。

 犯人は母だった。彼女はマリアではなくユダだった。私がクラムボンした翌日、同じクラスのT木君の母に話してしまったという。悪びれもせずにヘラヘラと笑いながら打ち明ける母を見て、私は生まれてはじめて親に怒りを覚えた。大人は汚い。こどもを平気で裏切る。

 あのときは一生恨んでやると誓ったものだが、大人になった今の感覚で思い返してみると、母はさほど深刻に考えていなかった可能性が高い。幼い息子の、可愛らしい失敗、くらいで。それとも彼女も長い人生の中で同じような失敗をしていて、だからう○こを漏らしたくらいで世界が終わることなんてないと、知っていたのだろうか。

 実際、その後も何度か世界の終わりを味わったものの、私はまだ生きている。あるいはそれは終わりではなく、こどもから大人になるための通過儀礼、古い自分から新しい自分に生まれ変わる、福音のようなものなのかもしれない。

 いや、マジでなんの話だこれ。

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