Night Shiftに関するあれこれ
ニ回目の録音
この曲もリメイクです。
オリジナルは1970年に録音されたこれです。
1970年と言えば、ウエイラーズが世界デビューに向けてアイランド・レコードと契約する2年前です。
まだジャマイカ国外ではまったく無名だった時代の作品です。
単刀直入に「夜勤」(Night Shift)と題されたこのナンバー、歌詞は若き日のボブの労働体験に基いています。
移民を夢見て
アメリカ人との再婚を機に合衆国に移民した母親セデラを追ってボブは1966年に渡米、母と共に8ヵ月間アメリカで暮らしました。
場所はデラウエア州のウイルミントン(Wilmington)です。
「永住外国人の未婚の子供」という資格で「移民ビザ」を取得し、アメリカ移民を目指していたボブはこの8ヵ月の間にニューカマーの自分でもできる仕事をみつけて精力的に働いています。
仕事場
具体的にはウイルミントン中心部にあるホテル・デュポン(Hotel Du Pont)で清掃係、通勤距離のニューアーク(Newark)近郊にあったクライスラー社の部品倉庫でフォークリフト・オペレーターとして額に汗したと言われています。
ちなみウイルミントンは世界的化学メーカー、デュポン(DuPont)を生んだ街です。系列のホテル・デュポンは超一流ホテルです。
トレンチタウンのガバメント・ヤード(Government Yards)以外、ボブの曲の舞台として特定できる場所は実はかなり少ないです。ホテル・デュポンはそういう意味で貴重な場所です。
話をボブに戻します。
もうひとつの家
継続する形で居住し、仕事したのはこの時だけでしたが、この最初の滞在以降もボブは何度もウイルミントンを訪れて母の家で時間を過ごしています。
滞在期間、回数など詳細は不明ですが、ボブは妻リタと3人の子供たち(Sharon、Cedella、Ziggy)を伴って繰り返しウイルミントンに短期滞在して母の家で家族水入らずの時間を過ごしています。
ちなみにボブとリタの次男Stephenは1972年ウイルミントン生まれです。
4人の子供たちはウイルミントンでアメリカの小学校に通ったそうです。
推測になりますが、1972年にCatch A Fireでウエイラーズが世界デビューしてからは、コンサートツアーのたびに子供たちをウイルミントンのセデラの元に預けていたんだと思います。
最初の頃はリタも子供たちとウイルミントンに滞在していたはずです。途中からアイスリーズ(I-Threes)のひとりとしてバンドとツアーに出たんで「預けっぱなし」という形になったんじゃないかなと想像します。
記念公園
ボブの母セデラはウイルミントンのTatnall Streetに住み、別の場所でジャマイカ移民向けのレコードショップRootsを経営していました。
セデラが住んでいた家の前には小さな公園があります。
世界的スーパースターの一家が住んでいたことを永遠に記憶に残すため、2014年になってこの公園はOne Love Parkと改名されています。
忘れないために
ウイルミントンにはボブや彼の一家と親しく交際し、いまだに彼らのことをなつかしく思い出す人たちが大勢います。
そのうちのひとりがジェニー・ピッツ(Genny Pitts)です。
1969年にボブと知り合った今は亡き夫を通じて一家と親しくしていたジェニーは1994年に夫と共にボブの追悼イベントPeoples Festivalを立ち上げ、今もこの野外コンサートを毎年主催しています。
「これは、セデラの願いでもあるの。やってちょうだいって言われたわけじゃないけど、彼女は私を信頼してくれたのよ。私たちはボブという絆で結ばれていて、それはいまだに壊れていないわ」
ジェニーの言葉です。日本ではまったく知られていませんが、この街にもボブとの出会いでその後の人生が大きく変わった人たちがいます。
以上、今回はボブがアメリカで唯一homeと呼んだ街ウイルミントンとそこで過ごした時間に関するあれこれでした。それじゃまた~
参考記事
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