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あなたはあたまが良いですか?~たまにパッキャラ魔道を歌いながら~

 「頭が良い」とはなんぞやという記事を見かけた。
 実榛さんが書いていたんです、昨日。
 君はそちらを先に読んでもいいし、読まなくてもいい。

 「あたまがいい」ってなんなんだろうな。
(昨日の記事では「頭が良い」って書いてあったけど、知らない誰かに差別的に受け取られるとイヤなので「あたまがいい」に開いておきます。ちいさなちいさな悪あがきとして。)

 この問題文は相当に抽象的。
 もし「絶対的に」「あたまのいい」人がいるならそれはもう何だかわかんないけど素晴らしいナニカじゃないかなあ。
 人間ではあるけど、私とは違う生き物だろうなと。
 あ、私は人間じゃなかったや。


あたまのよさと思考力

 私のなかでの「あたまがいい」は「考えることができる」が一歩目にある気がする。
 考えることができない人ってのは確実にいる。
 考えることそのものが面倒くさいらしい。
 頭をゴネゴネして戦うボードゲームやパズルゲームが好きな私としては考えて動ける人はかっこよく見える。
 ゼルダも謎解きでうんうん唸ってるときが楽しいじゃんね。

 日常生活や仕事でも同じ。
 ちょっと汚れたお皿を洗う程度のなにも考えずにできることならいいけど、だれかと関わりを持っている以上、頭を使わなくてもいいことってそんなに多くない。
 俺が私が~で突き進んでいけるならいいけど、それって誰かに損を押し付けているかもって視点が抜け落ちているかも。
 今ここで動いたら相手に余計な手間を与えてしまうかもって予測ができていないかも。
 相手を思いやるという意味でも「考えることができる」ってのはやさしくて「あたまがいい」人だと思う。

あたまのよさと想像力

 それからもう一歩踏み込んで「想像力のある」人は「あたまがいい」。
 私は以前、文章メインの同人誌を作っていた。
 一人で作品を編むのも楽しいけど、何人かで集まって書くアンソロジーが楽しかった。
 このまるみはま!のnoteも言ってみればアンソロジーみたいなものだし、そういうのが向いているのかも。
 アンソロジーは多くの人が関わるなかで人間性が見えてくる。特に編集者の側からすれば明け透け。
 そのなかでも「この人は……」と思うのは「締め切りを守れない人」。
 頭のいい人は文章が拙くても締め切りよりずっと前に形を整えて提出してくれる。
 締め切りを守れない人は学歴がどうとかは関係なく、くだらない言い訳をしてくる。〆切の数時間前とかに。
 それで提出してきたものは拙いのはもちろん、ぐちゃぐちゃで見直しをしたとは思えないくらい酷い。
 締め切りを守れない人に共通しているのは「想像力のなさ」。
 締め切りを破ったら編集担当がどんな対応をしなければならないのかを考えられない。考えてもいない。
 自分のターンが終わったら終わりだと思っている。

 んなわけない。

 原稿が送られてきたら誤字チェックやファクトチェックもするし、段組み、フォント、ポイント数、掲載順も調整しないといけない。
 締め切りを破ったら全体の調整が遅れるし、ギリギリで出来の悪いものが降ってきたら修正に時間がかかってまたこれも作業の進行に支障が出る。
 作業の進行が遅れると印刷所への入稿が遅くなって、印刷費が割増しになることだってある。
 全部が全部説明はしないけど、そういった諸々の影響が出ることを予想もしない人がいる。

 私は某お役所に席を置いていたこともあるけど、その時もいた。
 年末までに提出しないといけない会社の書類を年末最後の日に提出に来る。
 それで完了するなら問題はないんだけど、その書類をお役所が発行して、銀行へ持っていかないといけないんだって。
 書類の発行までには早くても24時間はかかる。
 間に合うわけがないのに窓口でごねる。
「私は社長で忙しいんだ。早くしてくれ。」の一点張りで1時間。
 暇なんか?

 …と愚痴のようになってしまったけれど「想像力のない」人は少なくともあたまがいいとは言えないかな~。

 あるいは、「あたまがいい」人は相手の考え方や知識のレベルを図りながら話し方を変える人が多い。
 知識が多くてあたまのよくない人は難しい言葉を何度も使って説明した気になっている。
 相手の所作のひとつひとつから柔軟に、想像力を使って伝わりやすいように工夫する努力をしている。
 あたまのよさ=想像力≒やさしさ でもあるのかもしれない。

 総じて「あたまのよさ」ってのは「やさしさ」につながるのかも。
 ここで言う「やさしさ」は性格のことじゃなくて「振る舞い」のこと。
 「あたまがよ」くないと誰かに親切にすることも難しいんだけど、それって見えにくいんだよね。

あたまのよさと優秀さ

 長々と書いてきたけど、もうひとつ。
 昨日の記事を読んで、「優秀」と「あたまがいい」は別の概念だろうなとも思った。
 なにかしらの尺度で「あたまがいい」人はたくさんいるし、そういう人たちは結果も出している、はず。
 だけど「あたまがいい」だけで何の結果を出していない人も少なからずいる、はず。
 一般的に、結果を出していない人に対して「優秀」というラベルは貼られていない、きっと。
 稀代の発明家トーマス・エジソンは結果を出しているから「あたまがいい」人として知られているけど、幼いころは教師から呆れられるくらい面倒くさい偏屈な子どもだったとか。
 もしそのまま変な器具を作るばかりで仕事をろくにしない怠け者だったらエジソンは「優秀」とは言われていなかったのは想像に難くない。

 では「優秀」だけど「あたまがよくない」人はどうだろう。
 勉強は苦手だし、努力もしたくない。仕事もそんなにできるわけじゃない。
 だけど昇進している。そういう人間を何人も見てきた。
 彼ら彼女らはちっとも「優秀」じゃあない。少なくとも仕事の現場においては。
 昇進試験で結果を出しているから上のポジションにいるって考えるとお勉強はできるんだろうけど、現場にいる同僚や部下からすればそんなことはどうだっていい。
 勉強ができる上司より、くるくる働いてくれる若者の方がありがたい。
 こういう面で切り取って比較すれば「優秀」な人材がどっちかはわかりやすい。

 だけど勉強ができることだって「優秀」じゃあないことにはならない。
 そういう面では「成績優秀」という誇るべき結果を出している。
 「優秀」さは結果からうかがうことはできるけど、「あたまのよさ」は結果も形も伴わないことがある。
 「あたまのよ」さと「優秀」さとには直接的な相関関係は無いのかなと思う。
 結果的につながっていることはあるけど、それは捉え方の問題なのかも。

まとめるには時間と余白が足りない

 まとめになるかはわからないけど
 私はこねくり回して考えて考えてぐちゃぐちゃにしたりすることもあれば
 ええいままよ!!と突っ込むこともある。

 だけどちっとも考えずに飛び込むんじゃなくて、考えたけど運に任せるしかないときは果敢に無謀に突っ込む。
 その方が楽しいから。
 結果にはつながらないことも多いけど、考えたりなにかを作ったり生み出したりするのは死ぬまでやっていたいと思う。

 それから、また機会とやる気があればやさしさについても書きたい。(そ)


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