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「気付き」を支えるコトダマ

引き寄せない法則の2
「気付きの実践とコトダマ」


前稿まででお伝えしたのは、まず「引き寄せない」という概念。
そして、悪しきこと、望まないことを引き寄せない第一歩として「気付くこと」の大切さでした。

そして、前稿では「船」をモチーフとし、私たちの内面が例えば「船と乗り手」のように、複数の機能、或いは存在で出来ているという「感覚」をお伝えしたつもりです。これをもう少し現実的な解釈から覗いてみましょう。

専門家、先達の見識を拝借致します。一人は、ジル・ボルト・テイラー博士。神経解剖学者、いわば専門家です。

ご自身の病(左脳の機能を全て失う)という体験を経て、右脳と左脳の役割の違い。更には、脳内には「4人のキャラクターが存在する」という視点で意識というものを説明しておられます。(ざっくりで済みません。詳しくは著書を)

もう一人は、エックハルト・トール氏。
私が知る限りにおいてですが、私たちの内面における「複数の存在」を最も解りやすく説いておられます。
おそらくはスピリチュアルの世界に分類される方面の大家で、本当に腑に落ちる説明、著作をなさっています。
少なくとも私が現在心身共に健康で、こうして何かを発信しようかと前向きにいられるのも彼の著作との出逢いや、それが示唆するところの実践に拠る部分が少なくありません。
この事はまた稿を改め、より具体的なエピソード等をお伝え出来ればと思う次第です。

お二人とも海外の方、もちろん学識的にも秀でておられます。その上で、人間が突き当たる苦悩や葛藤は世界共通なものがあるな、と実感します。

特に、トール氏の著書はオススメなのですが、著作中、キリスト教的概念や仏教的概念(特に禅)を多く引用しておられます。
それが問題というのではなく、私たちの意識や習慣に、文化的、或いは宗教的概念、価値観というものは実に色濃く反映される、という感想です。
そして、やはり「私は日本人だな」と痛感するのです。
それは何かと言えば、おそらくは私の根底にある「神道的」精神土壌です。
神道LOVEの意ではなく、西洋の方が仏教的世界観を語ると、日本人である私の仏教観は何かにつけ日本ナイズされているのを感じます。

少し話がそれました。話題を「気付き」に戻します。

ここで紹介したお二方、神経学の分野とスピリチュアル、立場は違いますが、脳内、或いは精神領域に複数の「キャラクター」を設定し、説明されているという共通点があります。

実際にはテイラー博士の「4人説」が、科学的であり正しいのかも知れませんが、「実感し易さ」という点で、私はトール説推し(笑)。
以上はちょっとした「箔付け」です。門外漢である私の話を、いくらかでも納得をもって受け容れていただきたいとの思いです。

さて、まずはあなた自身の内面に「思考し、もの言う私」と「その意見に耳を傾ける私」。この二つが存在すると設定してみてください。


日常の気付き

改めて、私がオススメするのは日常の気付きです。やることは実に簡単。
「ああ、また苛立ってるな」
「またあの人を批判してるな」
「何だか恐がってるな」
などと、日々刻々と浮かぶ思考、或いは感情、もしかすると潜在意識の発露かも知れませんが、その現象に気付く。
まずは答えなど要りません。
ただひたすらに気付く、一時停止する。気付いたら次は何をする、なんてのもありません。
「ああ、まただな」と気付く。それだけです。
毎日、おそらくは日に数十回に及びますが、段々と数は減っていきます。

私の場合ですが、1ヶ月ほど続けたところで、明らかに実感できる変化が起きていました。
特に、日々仕事の場で感じていたストレスが激減していたのです。 
それと比例するように、ネガティブな感情、怒りや恐れ、不安を伴う脳内対話が減っているのも解りました。

いくつかコツはあり、それは後ほど「コトダマ」などとして紹介するのですが、目的は心の中にある種の余裕を作ることにあり、その余裕のことを、私は「アソビ」と呼ぶことにしています。
「アソビ」は機械工作における概念です。車のハンドルなどにも「アソビが小さい」なんて表現を用いたりします。

例えば可動を前提とした機械を作るとして、金属板に直径5㎜の穴を開け、これに直径5㎜の円柱を差し込んだらどうなるか。
これ、下手するとハマりません。仮にハマったとして、かなりタイトにくっついて少なくとも可動なものにはなりません。

動かす前提の可動部には必ず隙間があり、径の余裕や角度の余裕を与えてます。これを「アソビ」と呼ぶのです。そう見ると、自動車などはまさに「アソビ」の集大成な訳で、この表現を用いた日本人て本当に粋だなと思います。

ここには「コトダマ」の要素が感じられます。

そう、私たちの心、脳内の機能にも「アソビ」が必要なのです。

思考という機能に対し、ここではいったん「自我(マインド)」が存在すると仮定してみましょう。
実際はもっと多元的であると言う意味での仮定です。

思考が勝ち過ぎた状態に自我が密着していると、私たちは特定の観念に振り回されます。

逆に自我が勝ち過ぎた状態(多分に情動的な)に思考が密着していると、私たちは非道徳的で無軌道な存在になります。

それらには、付かず離れずで牽制し合う「アソビ」が必要なのです。

この稿で言う「気付き」は、そのための習慣づくりです。


脳内対話と反芻思考、そして病

私たちは朝目覚めた瞬間、布団の中でもぞもぞしながら、或いは歯磨きしながら、ほぼ自動的に様々な「脳内対話」を始めています。
「朝ごはんは何にしようか」
「今日の予定はあれか、ああ面倒」
などなど。
この脳内対話自体は誰にでも普通に起こることで、一説によると1日に4万回とか6万回とか、ともかくそれ自体は病気でも何でもない。

しかし、何らかの状況(或いは環境)に身を置くことで、その脳内対話の内容にある種の偏りが生じ始め、そこに病とまではいかずとも、様々なトラブルや行き詰まりを生み出す思考的土壌が形成される場合があるようです。

傾向として、仕事に対するストレスや不満、他者に対する批判や怒り。

あくまで、私の場合としての過去譚です。 
とにかく忙しい毎日にストレスは感じている。それを日々発散出来れば良いのに、多くの場合、まずは「状況」がそれを許さなかったりします。
そこに加え、性格というかある種の思考の癖が拍車をかける、という構図です。

例えばです。
多すぎる仕事量に対しては「任されてる、期待されてる」と自身に言い聞かせる。
嫌いな上司に対し、当然面と向かって文句は言えず、頭の中で呪文のように不満を言い続ける
家庭にあっては子育てに追われ、日々喜びもあるけれど些細な不満は「これが幸せだから」と押し留める。

いつの間にか消えてしまう不満もありますが、概して強い不満ほど脳内で繰り返し、何度も想起されます。 
これを専門用語では「反芻思考」と呼ぶそうです。(反芻思考についての詳細はnote上やYouTubeでも解説が多数ありますのでご参照下さい)

反芻思考自体、これも病気ではありません。例えば事象の分析や問題解決への具体的なアプローチなど、必要かつ役に立つ反芻思考もあります。
問題となるのは、例えば、少なくともすぐには解決しない問題や課題を何度も苦々しく噛み締めたり、実際にぶつける事はないであろう怒りや不満を、脳内の「相手」に何度も語りかけていたりということ。
こういう思考を、とかく私たちはやりがちです。
皆さんも身に覚えがあろうかと思います。

厄介なのは、後者におけるネガティブな反芻思考には、多くの場合「感情」が付いてきてしまうことです。それもかなりリアルで臨場感をもった感情であることが少なくありません。

体が震えるほどの怒りを感じながら脳内の相手をまくし立てていたり、顔から火が出るほど恥ずかしい経験を都度想起していたりです。
これも皆さん身に覚えがあるはず。

これらは、単なる記憶の呼び起こしに思考という物語が付き、さらにリアルな感情まで伴ってしまう一種の「同化現象」であり、いわば思考という一部の脳機能に、あなたや私の「本質」「全体」が乗っ取られた状態とも言えます。

今、その場では起きていないはずの現象にです

こうした、目下実存していない問題と、眼前の現実的課題全てが混在した状況に苛まれ続け、私の場合、脳機能がある日突然ロックダウン(抑うつ化)しました。

繰り返しとなりますが、うつ病そのものについて語るのは本稿の目的ではなく、ひとつの極端な失敗例、原因の一部、私の場合はということであり、病の機序、経過としてはもっと複雑になってしまいます。

目的はあくまで「引き寄せ」。
「引き寄せ体質」というものがあるとするならば、私の場合はまさに、反芻思考に象徴されるような「思考の癖という体質」を持つようになっていた訳です。

序章において私は、引き寄せを「因果」と表現しました。
「正しい因(私)」を定めたら「正しい果(現実)」を引き寄せる、とも定義しました。

そして、「正しい因(私)」とは、ここで述べたような思考の癖に気付き、バランスを取り続ける営みに他なりません。

しかしです。仮に思考のアンバランスに気付いたとしても、どうしてもネガティブな思考に囚われたらどうするのか。
こうしたことが、私たちの生活では往々にして発生します。

ここでコトダマ(言霊)の力を拝借するのです。

最強のコトダマは「生きる」

「生きる」。

言葉としては全くもって普遍的で、特別なものではありません。ただ、これをコトダマとして捉えた時、もの凄くポジティブで、力強い響きを持っていると感じるのです。
言葉の意味付けはいったん後回しとし、おまじないのような、スイッチ代わりのフレーズとして捉えてみます。
自身の思考を落ち着かせ、シンプルで楽な方向へと意識を向ける、そんな意図です。

例えばこんな感じ。
「まずい、今日出した見積書間違ってたよ。怒られるだけじゃ済まない。でもこんな夜中じゃ連絡のしようもないし・・・・『そうだ、取りあえず生きてみよう』」。
また例えば、
「ああ、参ったな・・・課題山積みなのにやる気が出ない、どうしよう・・・『そうだ!生きるか』」。
ふと気が付くと物思いに耽っているなんてのもよくあります。そんな時も、思考の隙間に割り込んで、「いっか、まずは生きよう」。
こんな感じです。

文章にしてみると何だか脈絡として違和感はあるかも知れませんが、それで良い。
だって「スイッチ」ですから。

そこまでの過程で悶々と折り重なっている思考やあれこれを一度断ち切る。その事こそがとても重要だと私は考えます。

思えば、私たちが普段いちばん何気なく行っているのはまさに「生きる」ことそのものです。
どちらかと言えば、生きることに纏わる「意味」に私たちは重きを置きがちで、例えば、「より良く生きる」「豊かに生きる」。
或いは役割。「父として生きる」「母として生きる」。
まあ、生きるために必要な基本的な機能は、私たちの身体そのものが半ば自動的に担ってくれる訳ですから、当然と言えば当然なのですが。
そこはいったん度外視し、単純に、シンプルに「私は生きる」。その言葉だけです。

更にもう一歩進めてみましょう。

コトダマの構成を少し変えてみます。
眼前に横たわる問題や課題について、今まさに思考している自分に対し、このように投げかけてみます。
「色々と問題を提起してくれてありがとう。でも『私は』まずは生きるよ」そんなニュアンス。
あくまで語りかけるです。
こうなると、神道で言うところの「祝詞」に近くなります。

荒ぶるものに語りかける。
感謝し、鎮まっていただく。
「私」のスタンスを伝える。

案外、荒ぶる神というのは私たちの内面にあるのかも知れません。

さらに、どうしようもなくネガティブな思考、怒りや憤りが強く強く出現した時は、もう呪文やお経モードです(笑)。

「解った、解りました!でも今は『生きる』のが忙しいんで、ちょっと黙ってて下さい!取り敢えず生きます!今は生きます。生きる、生きる、生きる」と。


気付くことが「一時停止」だとすれば、コトダマで思考の矛先を変えることは、言わば「降りる」という選択です。
そう、あなたのその船から降りることが出来るんです。減速し、停止し、そして「降りる」。
どちらにせよ、止まらなければ降りることが出来ません。

それを何度も、何度も繰り返しているうちにあなたの自由度は増していきます。
その習慣があなたを守ってくれる。
必ずです

コトダマについての大事な視点

以上が「気付き」と「コトダマ」について、私なりにご提示できるメソッド的なものとなります。
ところで、私が言霊(魂)のことを「コトダマ」と表記していること、気になった方はおられるでしょうか。

意味があります。

私はコトダマを、本来の「言霊」とは少し距離を置き、ご提示したいのです。
冒頭、エックハルト・トール氏の件でも触れましたが、私たちの、少なくとも私自身の根底には神道的世界観があります。否応なしに「日本人的」感覚のひとつであり、言霊という概念も明らかにそのひとつです。
「スピリチュアル」「迷信」とするならそれまでですが、言霊という概念を用いるのであれば、そこに敬意を払わなければ意味ないのです。

ナポレオン・ヒル的な引き寄せの概念が、ある種西洋的精神土壌に根ざしているとするなら、言霊とはまさに日本人的な、古事記以前の日本に根付く原始的概念ですし、「元祖引き寄せの法則」に他なりません。
言葉が現象を引き起こすのですから。

ならば、本来の言霊は少なくとも私自身の手には余るものです。言霊が何か良い現象を私自身にもたらすのならば、同様に何か悪いものももたらす。
どちらかと言えば、悪しきものを引き寄せ無いよう、言葉を慎むのが言霊の概念には相応しいかと思います。
それが事実かどうかはおそらくは重要ではなく、そうした観念が私たちの文化、風習に強く根付いている。
そこが重要
なんです。
そこに敬意を込め、私たちが日常扱うのはカジュアルな「コトダマ」に留めるのが適切だと思うのです。

同様、言霊には古い概念で言う「呪(しゅ)」の側面があります。
これは、いわゆる「呪い」とは少し異なり、事象に対し一種の制約、縛り、現代で言うところの「契約」を与える概念です。
仮に契約、約束を履行しなければどうなるか。その戒めも言霊本来の役割であり、怖さでもあります。

そう考えると、私たちが普段扱う「言葉」と「言霊」、そして引き寄せで言うところの「アファメーション」。これらの違いが少し見えてこないでしょうか。

それ故に私は限定的に、あなたがあなた自身に、「自分が必ず守る、実行する約束事」をコトダマとして持つ提案をするのです。
あなたが、あなた自身に意味を与え、信念をもたらし、必ず実行する(できる)とする契約。それが「コトダマ」です。

そうすると、「生きる」と言うコトダマの意義を感じていただけるはずです。

少なくとも、今この文章を読んでいる刹那、あなたは生きています。

次の瞬間、必ず実行できる約束事。
「生きること」

逆に約束して下さい。
「生きる」と。

どんなに苦しくとも、どんなに絶望的な状況であろうとも、その理不尽な森羅万象に言い放って下さい。
「それでも私は生きる」と。

あなたの優れた「船」は、必ずや最適な航路を探すべく、自らを変成し直してくれます。
必ずです。

これが私の思う「コトダマ」の力です。

・・・感謝・・・
ここまでお読みいただき有難うございます。
次稿は、ちょっとしたまとめみたいなお話をいくつか。そこから次の大きなテーマに進みたいと思います。
たくさんのスキとフォロー、本当に有難うございます。反面、もう少し読み易い文章を提供したいと思う次第。

これからもよろしくお願いします。




 
 
 
 

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