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不安との付き合い方~夏休みの宿題理論~

引き寄せない法則の3


「行動とコトダマ(言葉)のワーク」

前稿では「脳内対話」と「反芻思考」に触れました。
簡単に言えば、考え過ぎちゃってる自分に気付き、客観視する習慣を持つことで心に余裕(アソビ)を生み出す。そのことが好循環を生み出すベースになる、といった趣旨です。

前のお話で用いた例は、どちらかと言えば極端な例、強い強いネガティブな思考、怒りや憤りといったものが思考を支配した時の対処、といった感じです。

ただ、いざ実際にその渦中に身を置くと、多くの場合気付くことが出来ません。大概は、ちょっと後で振り返り、「冷静じゃなかったな」とか、「自分は間違ってないよな」と、思考によって思考をなだめるといった循環に終始しがちです。
ここにも気付きが必要なのです。

あなたが、あなたの思考に気付く。それには、常日頃からの習慣が必要です。
そしてこのことは、あなた自身の「潜在意識」と向き合うための、大事な大事な一歩となります。
そう、ここにも引き寄せの大きな要素があるのです。

今回ご紹介する取り組み、やる事自体はとてもシンプルなものです。

行動とコトダマ(言葉)のワーク

前のお話で「コトダマ」をご提示しましたが、ここではもう少しライトに、単に「言葉」でも構いません。
やることは簡単。ちょっとケースワークしてみましょう。


ある日あなたが、「心身の健康のために散歩(歩く)を習慣化しよう」。そう思い立ったとします。
ここがSTEP1です。「健康のため」という目的に対し、「散歩(歩く)」という行動が定まりました。めでたしです。

早速翌朝、「ちょっと面倒だな」なんて思いつつも、服装だ、靴だ、おっと帽子もだ。「何かあるかも知れないからスマホは持とう」、「喉が渇くかもしれないから小銭も」。
ちょっと怪しくなっていますが、無事STEP2です。
今の目的は「散歩(歩く)」という行動そのものです。そのための準備は整いました。いってらっしゃい。

新しい習慣の第一歩を踏み出したあなた。最初は朝の空気を感じたり、公園の樹々を見て季節を感じたりと、いい感じです。ひとしきり歩いて無事帰宅。
STEP3「実践」の完結です。

あとは習慣化のSTEP4。ヨシ、イケそうです。

さて、ある日のあなた。
「散歩」は何日か続き、順調に見えるSTEP4。この日のあなたはちょっと違います。
「今日の会議嫌だな。昨日頑張って資料は作ったけど、うまく説明できるかな」「どんな挨拶がいいかな。普通じゃつまらないから掴みは・・・」などと考えつつ、気が付けば家についてます。

取り合えず無事散歩は完了・・・
でしょうか?

これ、もう「散歩」ではなく「考えながら歩く」です。少なくとも「心身の健康のため」という、当初の目的からはちょっとズレちゃってます。



このことに「潜在意識」と「思考」の機能、役割の現れ方が少し見て取れます。

そもそも、「歩く」という何気ない動作自体、ほぼ潜在意識(無意識)が担ってくれます。
もしかしたらその道中、何かに躓きかけたり、突如現れた自転車にぶつかりそうになったのも、潜在意識(無意識あるいは反射)が回避してくれています。
最初「散歩」を意識してると、あなたは「散歩」を能動的に行い、歩くという動作は潜在意識(無意識)が担ってくれます。
やがて散歩に慣れると、今度は散歩そのものを無意識が代行し始める。
上達、進歩とも言えます。

一方の「思考」。
この「思考」という存在は極めて寂しがり屋です。
潜在意識ばかりが活躍していると、ヤキモチを焼いたかのように姿を現します。
「あの問題忘れてないか」
「お前、この先どうするんだ」
「今すれ違った奴、ちょっとおかしくないか」
などなどです。

そう、「散歩より大事なものがあるんじゃないか」そう言って、あなたの思考は、思考を始めます。

そこで、「行動とコトダマ(言葉)のワーク」をやってみます。
簡単です。
散歩してるなら「散歩、散歩、さんぽ、サンポ」と、今やっていることを、只々言葉にして繰り返す。
単に歩くことにしても「歩く、歩く、歩く、歩こう歩こう」てな感じで言葉にして繰り返す。ただそれだけです。

実際にやってみってください。きっと3分ともちません(笑)。
それくらい、思考は自己顕示欲が強い。「ここにいるよ」と言わんばかり、気が付くと何かしら脳内対話を始めています。

でもそれで良いんです。それが普通。
思考に気付くことが目的です。
そしてもうひとつ、意識というものになるべく「フリーハンド」を持たせること。これも重要です。

実際にやってみていただくと解ります。もちろん繰り返し、繰り返しなのですが、そうすることによって、段々と余計な思考や過度な感情に気付きやすくなって来るはずです。

もう少し深い気付き

これ、例えば通勤などの時間に最適です。(というか、私の経験上かなりオススメ)
考えてみて下さい。例えば通勤の際、あなたのやるべきこと、目的は何ですか?
本来は「目的地に移動すること」、それだけです。
なのに、多くの人は実に様々なことを「マルチタスク」のごとく同時にやっています。
思考することはもちろん、新聞を読み、本を読み、スマホをいじり、ゲームをやり、ヘッドホンで耳を塞ぎ、目線を下に落としetc。

全てが無駄とは申しませんが、たまには「歩くぞ」と言って、ただ歩いてみてください。
帰宅するときなら「帰る」と、自分に言葉をかけながら「ただ」帰ってみてください。
無事帰って家のドアを開け、ひとつの安心を得た時、無事帰る事が出来たあなた自身を承認出来ていますか?「今日も善くぞ帰った」と。

余程のことがなければしてませんよね、そんな事。
むしろ、移動時間が勿体ないから、退屈だから、苦痛だから他のことをする。
何故でしょうか。


思考の源の多くは「不安」

私たちが、様々に思考を始めるきっかけは主に「不安」です。あくまで主に。

私自身がここまで問題視した「反芻思考」の起点も、多くは不安です。そして、その不安の多くは、さして実態がなかったりもします。

エピソードとして指摘した、「移動途中に何か他のことをする」という習慣めいたものも、「この時間は無駄、あるいは勿体ないかも知れない」という類いの、様々な不安に端を発することがあります。

ひとつは、現実的な課題に対する不安。目下の仕事や課題等に対し、このままでは何かが及ばない、といった類いの不安。

そしてもう一つは、具体的な課題等は無くとも、何かしら無為な時間を過ごすことで、「人生における大切な時間」を失っているかも知れないという、漠然としつつも、常に横たわる不安。

それは凡そ、私たちの奥底に根付いている「不安」だと言えます。


再び例え話です。
夏休みには終わりがあり、仕事には締切がある。当たり前の事象です。
同様、私たちが持っているのは人生にも締切があると言うような感覚、敢えて言葉にするとそうなります。
夏休みが終わり、新学期が始まる時、「宿題はやったか」と先生のチェックを受ける。出来れば「良く頑張ったね」と褒めて貰いたい訳です。

どうやら私たちは、人生においても似た感覚を持っていそうなのです。
それが閻魔様の裁きか、最後の審判か、はたまた自分自身の満足や納得なのか、私自身にもコトの真理は解りませんが、「良くできました」という評価過程がありそうだ、という畏怖。どうやらそれは持っています。

必ずしも宗教的観念とは言わず、幼い頃から耳にしたお伽話、物語、教訓のようなものに、実にタップリとそれは含まれています。
これも文化、風習と言えるかも知れません。

ちょっと話が大きくなりました。今回のテーマは、そうした不安の類いとどう付き合うかについてです。

不安との付き合い方

序章でも申しましたが、このような「不安」に対処しようとする機能は、私たちにとって必要不可欠なものなのですが、かと言って四六時中頑張ってくれなくとも良いんです。

結局は、私たちのリソースを消費し、疲れさすだけですから。

では、具体的には何をするのか。
ここも「行動とコトダマ(言葉)のワーク」をオススメします。色々とやり方はありますが、説明として解りやすいのは「休憩」です。

仕事や勉強の合間、ちょっと一息の時間は必要。人によってコーヒーを飲んだり、タバコを吸ったりと過ごし方は様々。
私は愛煙家ですが、今も昔も喫煙コーナーの風景はあまり変わりません。
そこに仲間がいるなら、あれやこれやと話しながら過ごしたりします。
でも、それが職場の仲間であれば、共通する話題の筆頭はやはり仕事のこと。

独り(ひとり)ならどうか。特に色々と追われている時ほど、仕事その他の不安について黙々と(まさにモクモクと)思考しがちです。
前段で「散歩中に仕事のことを思考する」と例えましたが、それと同じ。本当に休憩してるでしょうか。

ここもやはり「休憩、休憩」と言葉にしながら過ごしてみて下さい。
お茶を飲むのであれば、「お茶、お茶」と言葉にしてみる。実際に声に出す必要はありません。
もう少し行動にトルクを与えるやり方もあります。例えば「コーヒー」「淹れる」「お湯、注ぐ」「黒い、熱い」「良い香り」などと、ひとつ一つの動作や感覚を、敢えて言葉にしてみるのです。
出来れば楽し気に。

これが、引き寄せやマインドフルネスで言うところの、「今に在る」という感覚の入口だと、私は思っています。
「今、ココ」と言葉にして繰り返すのも良いのですが、観念が宙に浮いてしまうことがしばしばです。
それならば、今やろうとしている行動、今感じている感覚を敢えて言葉にし、その瞬間、その時間に集中してみるのです。

それで不安が無くなるという訳ではありません。ちょっと距離を置く、付き合い方の問題ということです。

遊びや趣味、旅行、瞑想。それらで一時不安との距離を取るのは良いことです。しかし、それが難しいという状況はしばしば起こります。
それ故に、日常の行動や言葉を活かして、日々少しずつでも不安との距離を取る。そういう習慣をつくる。
これをオススメするのです。

不安の本質

さて、目下の不安、問題や課題等には、まさに様々と思考し、行動に移して解決する。
私たちの日常はその繰り返しであり、そうして安心を積み重ねる訳ですが、四六時中やる必要は無いというお話でした。

そうして不安、問題を解消し、ある種の成功体験を積み重ね、安心を積み重ねる。それで私たち人生は上手くいきます。

とはならない。www
何故かしらです。

宝くじの高額当選者が、その後の人生あまりヨロシクないという話はよく耳にします。
統計的にも事実らしいですが、それはなぜか?です。
「お金の使い方を知らない」という、ある種の技術的指摘はひとつの真理でしょう。

私の視点はこうです。
せっかく、「大金」という望みに望んだ安心を手に入れたのに、その刹那から、
「これを失ったらどうしよう」
「これを上手く活かさないのは勿体ない」と、新たな「不安」を手繰り寄せるのです。
私が一度手にした成功、幸せを全て失ったのは、究極それが原因です。言わば「幸せの使い方」が下手クソだった。

そう、これが「引き寄せない法則」の本丸です。私たちは何故、かくも不安を引き寄せるのか。どうにも、そのように人間は出来ているみたいなのです。

ここで再び「夏休みの宿題理論」登場です。

夏休みの宿題理論

この稿の最後となります。再びとある物語です。舞台は学校。


ある学年の、1学期の最終日。全校集会を終え、クラスでの学級会も終わろうとしてます。
諸々の連絡事項を伝え、恒例の通知表を渡し終えた後、先生は言います。
「みんな良く頑張ったね。1学期はこれで終わりです。新学期、また元気で合いましょう」と。
そう言って先生は教室を出ようとしました。そこである生徒が切り出します。
「先生、宿題は?宿題はないの?」と。
先生は一時立ち止まり、皆の方を振り返ります。そして、まさにアルカイックスマイルとも言うべき、柔らかな微笑みを見せると、そのまま教室を出て行きました。
教室は少しザワつきつつ、各々が帰途に就いて1学期は終了です。

夏休みに入り、遊びや行事の度に生徒たちは顔を合わせますが、折に触れ宿題の話題は出ます。
「ねぇ、宿題やってる?」
「え?先生何も言わなかったじゃん。だからやってないよ」
「そんなはずないよ。いつも宿題あったじゃない」
「そうだよ。先生いつも『日記は書きなさい』って。だから日記書いてる」
「理科の授業の時、『えじそんは偉い。でもにこらてすらはもっと凄い』って言ってたから、にこらてすらのこと調べててる」
「私も。先生いつも『読書は大事』って言ってるから、図書館で本借りて読書感想文書いてる。しんらんっていう人のたんにしょー」
「えー、何だよー。やっぱり宿題あるのかな」
そんなやり取りを時々しつつ、夏休みは終わりました。

新学期の日、朝の学級会が始まりました。開口一番、先生は「おはよう。みんな元気そうだね。どうやら宿題はやって来たみたいだ」と切り出します。

教室内はザワつきます。
「読書感想文書きました!」
「自由研究やって来た」
皆口々に成果品を取り出し始めます。そこである生徒が立ち上がって叫びます。
「何だよ!ズルいよ!先生、宿題のこと何も言わなかったじゃないか」もう半泣きです。
見渡すと、何人かの生徒は同じく憤っています。慌てて先生が言います。
「ゴメン、ゴメン。先生の言い方が悪かった。ちょっと落ち着いてくれるかな」
と。
少し時間を置いて先生は続けます。
「夏休みの前、先生は言ったはずです。『また元気で合いましょう』と。それが宿題です」
「えーっ」教室全体か再びザワつきます。すると、少し間を置いて先生は語ります。何故だか少し涙を浮かべながら。

「本当に良く出来ました。みんな元気で本当に良かった。みんなの『宿題』は全部、ちゃんと見るからね」と。

教室内を静寂が包みます。

「さあ、新学期を始めよう」そう言って、先生は教科書を開きました。


以上です。

勿論、私なりの理論、私なりの比喩ですが、どうやら私たちは皆、この「夏休みの宿題」を抱えています
正確には、夏休みの宿題を探しているのです。人生百年という、長い長い夏休みにおいて、何かしら宿題があるはずだと、結構なリソースを割いてそれを探しているのです。

凡その「不安」の奥底には、それがあるのだと思います。私の宿題は何か、と。

これも、あくまで私なりの解ですが、おそらくその宿題というものはありません。

そう、無いんです。

なのに、その朧気なものを「不安」の根底に据えてしまっている。何故でしょう。
次回以降はその話題となります。

さてさて、人生における宿題は無い。そのように切って捨ててはみたものの、やはりそれでは少し寂しい。
(結局は不安?)

なので、私なりに「宿題」は持つようにしています。
これも再登場、「生きる」こと
そして「つくる」こと。こうして文章を編むのも、作曲するのも「つくる」です。
「何のために」という意味付けはなるべく捨てるようにしています。
生きるためにつくる。つくるために生きる。そうして思考の範囲を限定するようにする。
それが真理とは言わず、私はそうすることで余分な「不安」と距離を置いています。

相変わらずテーマは「気付く」ことです。
あなたにとっての「不安」とは何か。それに気付くと付き合い易くなる。そういうお話でした。

・・・感謝・・・
ここまでお読み頂き有難うございます。
次稿、コラム的なものを挟みつつ、「絶対幸福と相対幸福」と題してお送りする予定です。
引き続きお付き合い願えれば幸いです。












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