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おばあちゃんの思い出

まず最初に、大変申し訳ありません。
このタイトルだと劇場版ドラえもんの「おばあちゃんの思い出」を連想される方が多いと思います。私と同年代の方は特にそうなんじゃないでしょうか。
これは映画感想文ではなく、私と母方祖母の思い出振り返りnoteとなっております。
お付き合いいただける方はこのままスクロールのほどよろしくお願い致します。

去る9月某日、私の母方祖母が旅立ちました。
もともと昨年末には年を越せないかも…と言われるもなんとか持ち堪え、7月頃にはもうだいぶ弱ってるから顔を見に来い、今月までだぞ!と言われるもやはり持ち堪え、家族内で「もしかして今年いけるんじゃね?」みたいな楽観的なムードが漂い始めた矢先の出来事でした。
いや、7月末から水分点滴のみだったからね…水だけで半年弱持ち堪えたらそらすごいことなのよ…。(かかりつけの往診医は最長9週まで診たことがあるとのこと。約2ヶ月はすごい。)
同居している看護師の叔母と足繁く通い詰めた母により自宅で看取られ、バッキバキの認知症とどうも脳梗塞による右片麻痺、失語(ちゃんと特定されてないけど喋れなかった)があったものの、最期は老衰との事で、娘2人と九州から馳せ参じた妹に見守られ旅立った祖母の新たな旅路が穏やかなものでありますように。

なぜこんなお気持ち文章を書いているかというと、自分でもびっくりするくらい気持ちの整理がつかず葬儀までの1週間ではちゃめちゃに体調を崩したからである。もう文章に起こすことで気持ちの整理をつけ昇華させたかった気持ちが強いのです。
父方祖父母と母方祖父はもうすでに鬼籍に入っており今回がラスト祖母だったのですが、私はこれまで各祖父母に対して不義理の極みでここまで来たので、突然の訃報を受けてもそこまで揺らぐこともなく葬式でまあまあ泣いて見送るくらいが続いてきたのでした。

父方祖父母は盆と暮れくらいにしか会わなかったし、小遣いが欲しい時にだけ顔を見せる孫ムーブすらしなかったのですが、母方祖母は小学校低学年の頃、夏休みに大変お世話になりました。
まだ1人で家に置いておけないからと祖母宅に預けられ、長期滞在するあいだ温水プールに連れて行ってもらったり、祖母が参加していたソフトテニスサークルに連れて行ってもらったりと、たくさん遊んでもらいました。
祖母はアクティブな人だったので、コーラスサークル、フラダンスサークル、ソフトテニスサークル、中国語教室、地域の民選委員などなど、多方面に顔を出すタイプの人で友人も多く、祖父の葬儀のときは祖母のお友達がたくさん参列して祖母を励ましていたことを覚えています。

もともと大連生まれ、終戦後の引き上げまで大連で育ち旅館のお嬢様だったこともあり、外面がよく気質も大陸育ちの大胆さがありつつ穏やかなお嬢様、口元に手を当てほほほと笑う人でした。
母親(私の曽祖母にあたる)は大連で亡くなり(認知症になり始めてからぽろっと溢したため叔母も母も知らなかった)、父親(私の曽祖父にあたる)は戦没。子供ながらに激動の時代を生き抜いた人でした。
祖父が昭和初期の絵に描いたような亭主関白系頑固ジジイだったこともあり、三歩後ろからついていく昭和の女性って感じの人。絶対に米を食べない祖父のために酒のつまみになるようなおかずを何種類も作り、最後は〆の麺類の主食を作る人。
とことんのめり込むけど自分の中で満足するとある日突然パタっとやらなくなる、そんな人だったそうです。中華ちまきとビーフンは本場の味で作ることができる、正月の栗きんとんは芋きんとんに栗を乗せる人でした。

だんだんと雲行きが怪しくなってきたのが12年前。祖父が亡くなって1年くらいした頃からなんとなくぼんやりすることが多く、また話の内容もなんで今こんなことを?みたいなのが増えてきて、決定打は買い物に出た先で転んだところを通りすがりの人に車で送ってもらって帰宅したと言ったことでした。
何を買いに行きたかったのかも分からず、なぜか擦り傷まみれで、知らない通りがかりの人に車で家まで送ってもらい、連絡先も聞かずに解散。なんとなくこれは…?なんかもしかして…?と叔母と母で話し合い、認知症外来にかかり始めたのでした。
そこから数年、私は大学(というより部活が)忙しく、さらにそこから就職し企業戦士(仕事が忙しかったってより上司のセクハラがキモかった。そういう戦い。始発終電もあったけど。)をしている間、顔を見せる間隔も間遠になった頃、気づけば祖母は私の名前を呼ばなくなったのでした。
よそ行きの顔でニコニコしながら私の話を聞き、何を問いかけても曖昧な返事をする祖母に、私はとうとう祖母の中から居なくなってしまったんだなとショックを受けたあの日の記憶は強烈で、あの日がある意味祖母とお別れの日と言っても過言ではありません。

先日滞りなく行われた葬儀が2度目のお別れとなりました。
歯は虫歯もなく全部残っていたものの、嚥下機能が低下していたので固形物は食べておらず、最後1ヶ月は水分のみだったのであまり骨は残りませんでした。
収骨したあと思うのは小さくなったなぁ…です。

あまり自分の主張をしない人で、叔母も母も介護するにあたって好きなことも好きな食べ物も何も知らないなぁと直会の席でこぼしていました。
我が家は無宗教のため来世がどうとかの教えはありませんが、どうか祖母が次の場所で穏やかに過ごせることを願うばかりです。

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