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『CLOSE』を観て考えた自死のこと。

自死について書いております。センシティブな内容となっておりますので苦手な方はご遠慮ください。

『CLOSE』が周りで好評だったので観に行きました。

今回は良い映画なのかどうなのかとかそういう感想が特に浮かばなくて、やはり一番大きなテーマである「近しい人間の自死」について考えざるを得なかった。

突然のレミの死によって周りの人は様々な反応を示す。家族や友人と普段通り雑談している場面で突然泣き出してしまう。レミのことを分かった口聞いたクラスメイトに腹を立てる。淡々と普段通りの仕事や学校生活をこなす。レミが自死した原因について探ろうとする。レミのことを何もわかっていなかったんだと絶望する。

現実で近しい人の自死に直面した際に起こり得る様々な反応が描かれている。
どれもがリアルだったし、色んな反応が同時並行で起こっていることをただただ提示していて、それが心地が良かった。

自死に向き合うことは本当に難しい。これについて考えると、頭の中が真っ白になる。

それが起きた直後は、その人との思い出とか、その人が好きだった曲を聴いて涙したりとか、もう我慢しきれなくなって思いの丈を綴ったりしていた。

でも数年経つと、改めてよく分からなくなる。本当にもういないのだろうか?と今更な疑問が浮かぶ。悲しいとか嫌だとかそういう新鮮な気持ちは一旦消え失せていて、単純にその人がもういないという事実しか残っていなくて、ただそれを傍観しているだけな気もする。これが忘却なのかとも思うが、ひょんなことからフラッシュバックする時もある。

何を観たらフラッシュバックするかとかも検討がつかない。同じテーマを扱っていてもする時としない時もあって、その自分の体調とか、もはや運みたいなところもある。

話は少し変わるけど、追悼式やお盆という儀式への姿勢についてもグチャッとした気持ちになる。なんだかものすごく個人に対して恩着せがましいなと思う。僕たちはこれだけお金をかけて定期的にあなたたちのことを思い出してますよ、という姿勢が苦手だ。故人にとって何の意味があるのだ。意味なんてない。残された側のエゴでしかないし、それどころか「ちゃんと慣習や伝統を守れる人間ですよ」というアピールでしかない場合もある。最悪だ。
だから、お盆に参加するとき、追悼するときは、私が思い出したいんだから思い出してるんです、と思って参加している。彼らのことを忘れたくないから、勝手にやってることなんです、許してくださいという具合に。

人が死ぬことはその人の自由だ。彼らが味わう致命的な苦しみや絶望を事前に防止することもできなければ後から完全に消し去ることももちろんできない。だから人が自死することについて他者がどうこう言うことはできないと私は思う。

著名人が自死した後のツイッターに散見される友人、知人による「こうしてあげればよかった」等の呟きなんぞもってのほかだ。「あげる」という言葉自体が傲慢だし、「してあげる」ことによって確実に相手にプラスの影響を与えるという前提なのも嫌だ。

人は、他者との対話を重ねて自分の信念を更新しながら「居る」と「する」をやっていくしかないのだ。それが誰かの致命傷になり得る傷を与えようと、悲しませようと、救いになろうと、気持ちを明るくしようと、ただそうするしかない。

近しい人の自死を克服したり、心の整理をしていくことは難しい。意義深いことだとか、今後の人生に役に立つ等と美談に仕立てて消費するのは気持ち悪い。

ただ、その人と私の二人の世界を紡いでいくのが故人との良い向き合い方なのではないだろうか。

現時点の私はそう考えている。




写真引用元:https://closemovie.jp/

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