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弾くきせき

人間だもの、嫌いなものの一つや二つあって当然。言わずもがなである。

僕は心理学だとか生物学に詳しくないので、間違っていたら申し訳ないのだが、嫌いって奴は過去の経験や出来事に基づいて、人やものに対してネガティブなアソシエーションが形成されるような生存本能の一環によるものや文化的背景や環境によって形成されるものもあれば、個性や性格によって異なる好みや嫌悪感を抱くようなもの、心理的な側面や心理的なニーズによって形成されるものがあると思う。

「嫌いだと思うもの。」

そういうものについて、少しだけ時間や余裕があったら向き合い直してみるといい。こうやって言われてすぐに頭に浮かぶものは特に。嫌いだけど惹かれるもの。苦手だけど惹かれるもの。嫌いだけど気になるもの。苦手だけど気になるもの。こういったものは生きていれば必ず存在するものだ。
大体は前述した個性や性格、心理的な側面によって形成されるものなのできちんと向き合った方がいい。
ほんとうに、ほんとうに。

なんてったって人間ってやつは気分屋ですから、そのときの感情で簡単に嫌いだと思ってしまったり、苦手に感じてしまう。大人は特にだが、嫌いという感情を態度にしてしまったが故に維持やプライドによって本人が意図していなくとも引き下がれなくなっている場合もあるだろう。それどころか僕の経験では、好きで好きで堪らないものですら、堪らなくなって嫌いな部分が目に付いてしまうことがよくあるくらい、本当に曖昧で、軽くて、薄くて、どうしようもないのだ。

どういうところが嫌いなんだろうか。どういうところが苦手なんだろうか。どうして気になってしまうのだろうか。どうして敬遠してしまうのだろうか。仮に好きだと認めてしまったら何がわるいのだろうか。

考え直してみると、案外好き嫌いって奴は少なくなるものだ。いい例としてこういう思考によって僕は食べ物の好き嫌いがうんと減った。人間関係も良好に築きやすくなった。

これは昔糸井重里さんがどこかで仰っていたことの受け売りですが、「一寸の虫にも五分の魂」。五分は一寸の半分です。魂の半分ですから、随分大きく見積もっています。これを人間にあてはめたら身長の半分が魂の大きさということですから、大変大きなものです。

「盗人にも三分の理」とも言いますが、これも盗人の言い訳をずいぶんたっぷり認めてます。

どちらも現代の常識では考えにくいことで、「一寸の虫は一寸。魂なんかない」だったり、「盗人には理なし」だったりするかもしれないと仰っていました。

これはきっと目に見えるものに対しての価値観が変わってしまったからだと思います。
「一寸の虫にも五分の魂」は、小さなものや取るに足らないものでも、それに対する意味や価値があるということわざですが、何かを軽んじて嫌いに思う前に、そのものや人の背後にある側面や意味を理解しようとする姿勢はちゃんと大事にしたいよネ。

虫に優しく。盗人に優しく。自分の嫌いに優しく。
丁寧に丁寧に向き合って、抱きしめてあげよう。

今週も読んでくれてありがとうございます。
子どもの頃から苦手な椎茸も最近ちょこっとずつ仲間に入れてあげてます。

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