きょうへい

独り言にフィルム写真と文字を添えて。 見てくれてありがとう。大体週1投稿よろしくお願…

きょうへい

独り言にフィルム写真と文字を添えて。 見てくれてありがとう。大体週1投稿よろしくお願いします。 Instagram @kingtang0714

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最近の記事

凪いだ桜まじ、ぼくの英雄

突然どこかに行ってしまいそうだとか、去り際が突然だとかそんな類いのことをよく言われます。 その反面、ぼくは人に依存します。これを言っても、あまり信用して頂けませんが、ぼくは本当に依存体質です。 幼い頃、教養はないし、浅はかで、大した特技も個性も持っていないぼくは誰にも必要とされていないような気がしていました。そんなぼくはあるとき知ってしまうんです。誰かの素敵な物語の登場人物になればスポットライトが当たったような気がすると。こんなぼくでもいつかその物語のスピンオフの主人

    • アンチお利口主義

      いやはや、世間は随分とお利口さんになってしまった。お行儀がよくなったと言うべきか、愚かさが減ってしまったような気がする。元々お行儀の悪さが売りのとある小説が映画化されたので観てみたら、原作が漂白されたようなとても美化されたマイルドな仕上がりになっていたので、ふとこんなことを思ってしまった。 ぼくが大人になったからなのかと思ったが、そんなことはなく、お利口さんが今の世間の需要なのだろうと思う。綺麗な映画、ポジティブで華やかな音楽が流行り、有名人は愚か、退廃さが売りのロック

      • フェミニズムと思いやり

        もし究極の「思いやり」が存在するならば、フェミニズムは存在しないのではないでしょうか。ぼくは元々、男女分け隔てなく、もっと言えば生物分け隔てなく、おしなべて思いやりを持って接することができるほど、他者を慮る(おもんばかる)ことができるのであればフェミニズムは存在しないのではと考えていました。 しかし、答えは否でした。 世の中には無意識のうちにかけられた呪縛のようなものが沢山存在しています。差別をしてしまうのは必ずしも、ぼく達個人の問題だけではないのです。社会や文化な

        • ええ、あなたへの。

          ちょっぴり春めいてまいりました。お正月がまだそこら辺をうろついおりますので、どうにももう3月に入る実感がありません。ぼくは気が早い人間なので、何でも先取りしたがります。当然季節も例外ではございません。 春物のコートを着て、冬の甘く重たい香りとは打って変わって軽く爽やかな春の匂いを纏います。 ぼくはかなりの香水マニアでして、マニアと言うからにはもうプラトン哲学の狂気と言っても過言ではない程ですが、自分の使っている香水を誰にも教えたことがありません。それは友人にも恋人にも家族

        凪いだ桜まじ、ぼくの英雄

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        • よみかえす。
          1本
        • エッセイ的な
          22本
        • みじかいことば
          13本

        記事

          8ビートCとD

          ぼくはこのエッセイを書く際、カッコつけず、成る可くありのままの自分でいることを心がけています。 少しでも気を抜くと忘れそうになります。 当たり前のことですが、これは日常生活においても随分大事なことのように思えます。人は必ず変身願望みたいなものがありますから、多かれ少なかれカッコつける生きものです。先日遂にぼくのエッセイに1500のいいねを頂いたという通知を受け取りました。とりわけぼくは、調子に乗りやすい性格なのでふとカッコつけてしまっているときのぼくを思い返してみました。

          8ビートCとD

          扉をあけたら。

          皆様、唐突ですが「扉」を思い浮かべてみてください。 さて、どんな扉でしたか。 鉄でできているのか、木でできているのか。 頑丈だろうか、ボロボロだろうか。 いつもの玄関か、温もり溢れる実家の扉か、それとも大好きなあの人の家の扉か。 そもそもそれは入口なのか、出口なのか。 僕らが毎日触っている玄関の扉も休日遊びに出掛けるときと仕事に向かうときとでは景色は全く違って見えるだろう。何度触れたくないと思った職場の扉だって、帰宅する直前はウキウキで触れるだろう。 こんなに身近

          扉をあけたら。

          ねこふんじゃった

          ぼくは昔から人に何かを伝えることが苦手である。 こんな風に長々とことばを連ねている自分が言ってしまうと信用して頂けないような気がするが、これはその裏返しだと思ってほしい。昔から人前に立つのは苦手なのに、音楽を生業にしていたのも、ことばで伝えられないフラストレーションのはけ口だったのだろうと今になって思う。 気を使いがちな自分にとって余計なことは言わないに限るし、言って相手を不快な思いにさせたくないと、苦手もさることながら、それが正しく、寡黙な自分がかっこいいとさえ思ってい

          ねこふんじゃった

          両価感情

          今更ですが、新年あけましておめでとうございます。 今年もどうぞよろしくお願いいたします。 皆様は今年は書き初めはされましたでしょうか。 ぼくは「両価感情」と書かせていただきました。奇をてらったようなことを書いてしまいましたが、「両価感情」つまりは「アンビバレンス」を大事にしていきたいという思いからこの「価」を選びました。 念の為、改めて説明をいたしますと、アンビバレンスとは何かひとつの対象に対して相対する2つ感情が混在している状況を示すことばです。例えば、「好き」と「

          どんととらすと私。

          1ヶ月のお休みを頂きまして、月初めに再開しようと思っていたら、もうあっという間に年の瀬です。 いつもなら混んでいる電車も全然人がいません。毎朝駅で見かける、なかやまきんに君のスリッパを履いたお姉さんも、点字ブロックを後ろ向きに歩くお兄さんもいません。ガラガラの電車の窓からは綺麗な景色が良く見えました。 皆さま今年もお疲れ様でございました。 そうね、そろそろ来年の抱負を決めないとね。 1年の抱負なんて言うと大層なものに思えて、ああでもない、こうでもないと考えあぐね、挙句今

          どんととらすと私。

          思い返せば、ほとんど「アリガトウ。」だな。

          思い返せば、ほとんど「アリガトウ。」だな。

          侘び寂びエモい

          人の感情は千差万別である。素敵な音楽に涙したり、友人の些細な言動で笑顔になれたり、 僕は先日、牛丼屋チェーン店の味噌汁に母の味を感じて心がしんみりしてしまった。 感情は、僕ら人間だけに与えられた崇高なものなんかじゃなく、違いはあるのだろうが、犬も猫もキリンも蛙も、蟻んこだってきっと持ち合わせているのだろう。 ただ感受性となれば話は別だ。 人やもの、出来ごとなどに出会って何かを感じ取り、それを思考し、咀嚼し、意味のある認識を紡ぎ出す。 それを然るべき形で表現できて初めて、

          侘び寂びエモい

          させていただき、ありがとう

          大人ですから、そりゃあ正しい日本語や敬語が使えた方がいい。博愛主義でなくとも、平等な人格を互いに認め合う現代社会ですから、全ての人に敬意を持って相手を大切にし、丁寧に接する為、社会的な秩序を保つ為、文化的な背景、多種多様な理由でそれは必要なのだ。 ただ間違っちゃいけないのは、言葉はコミュニケーションの手段や道具ではないこと。どうしても形式張って使うことによって言葉の本質を見逃してしまいがちである。 そんな風に改めて考えさせられる事案がつい先日。 冗長になってしまいました

          させていただき、ありがとう

          自分にノーと言えること

          すべての物ごとに肯定ができるのか否か。おそらく否であろう。肯定することもあれば、否定することもある。 その意見自体の是非は問われない。 至極当然のことだ。 ところがどっこい。自分のことはどうだろう。 SNSが発達してきた頃からだろうか、「自己肯定感」という言葉をやたら耳にするこのご時世。 途端に肯定することが正しいとされてしまっている。 僕はこの「自己肯定感」という言葉が嫌いだ。本当に嫌いだ。あたかも肯定することが前提にあるかの如く存在している言葉が嫌いだ。 前に

          自分にノーと言えること

          「じゃあね」より「またね」の方がまた会える気がしませんか。

          「じゃあね」より「またね」の方がまた会える気がしませんか。

          みらいのおよめさん

          みじかいことばシリーズで投稿しようと思っていたことば。 やさしいひと。 衣食住にキチンとこだわりがあるひと。 季節の花や魚の名前がわかるひと。 僕みたいにこんなことを言わないひと。 と是非結婚したらいいんじゃない? 因みに、このことばは僕が妹の恋愛相談に乗ったときに言ったことばですが、肝心の妹には刺さらなかったようです。 刺さらないどころか一言、 「めんどくさい。」一蹴されてしまった。 渾身のアドバイスだったので、どうにも不完全燃焼だった僕はThreadsに投稿した訳

          みらいのおよめさん

          根っこ

          ぼくの或いはひとの根っこと言ってもいいのかもしれない。 それは何かと問われたらぼくは真っ先にひとであると答えると思う。 今のぼくがあることは紛れもなくひとがいたからで、生まれたその瞬間から死ぬそのときまでずっと誰かがいてくれるのだと思う。 孤独なぼくらが、孤独な植物のように、永遠に分かり合えることのない他者との巡り会いが根だと思うのだ。 せっかく根についてお題を頂いたので、取り上げない訳にはいかないと思ったことばがあったので紹介させてください。 「根を持つこと、それは