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エンパシーとシンパシー


私は大学の4年間、演劇学をモーレツに学んだ。芝居は能や狂言、歌舞伎、商業演劇から唐十郎まで幅広く観て回った。演劇学の本はなかなか世に出っぱなしにならないので図書館にもない本を探しに古書店を一日中歩くこともあった。店たちは大学の近くなので助かった。学生仲間で作る映画にも出演した。老け顔なのでいやらしい金持ちの社長の役などをこなした。監督からオーバーアクションだとダメ出しをよく出された。岩波ホールで作家、演出家、役者たちの話もよく聴いた。木下順二、山本安栄、宇野重吉、謹慎が解かれた観世栄夫、野村万作、能楽師や狂言師の話も面白かった。早稲田に忍び込み、特別講義も拝聴した。森繁久弥の話は今でも思い出せる。滝沢修も見事な演技論をもっていた。電話のかけ方や振り向き方の微妙な仕草まで学んだ。三波伸介の「君こそスターだ」は二次まで言った。伊豆の踊子のヒーロー役のオーディションは一次で落ちた。三浦友和に負けたんだと少し悔しく思う。大学の相撲部を途中で逃げ出したのが高倉健で、相撲部員たちには囚人のエキストラー役が回ってきたという。ボクは既に力士を諦め教員を目指していたので囚人にはならなかった。教員を長くしていたのて快活だとだと思われることがあるが、本来、内向性だと自覚している。しんねりむっつりな男だ。演劇人にはそう言う人が結構いる。ジャンジャンの楽屋を訪ねたとき中村伸郎もそう言っていた。性格を矯正する為に演劇の道に入ったのだと。時間があれば読書とかFBとなるのもそのためだ。読書はまだ他人に迷惑をかけないがFBは迷惑だろうが記録しておきたいと思ってしまう。害もあるが為にもなるのが演劇学だ。何しろ自分ではない人になると言う経験は役者か詐欺師ぐらいだ。役者にはなる勇気が出なかった。こんなところで奥ゆかしさが出たのかも知れない。教員にならずに詐欺師になっていたら今頃は財をなしていたに違いない。まあ教員も役者だったり詐欺師だったりする。ここで泣きたいと思ったら平気で泣ける。勿論、子どものことを考えて泣くのだが体調によっては涙にならない時もある。そんな時は、瞬きをしないで悲しかったことを懸命に思い出す。出来事はペットが死んだ時のことでも、相撲部の先輩に理不尽な事をされた時のこと、母を困らせたことでもなんでもいい。経験上、将来の事を想像するよりも昔の出来事を思い出す方が泣きやすい。一度涙の火がつけばあとは大丈夫。これで子どもたちに何度諭したことか。このFBは教え子も数人友達になっているので、あれ? あの時のあの場面はうそ泣きか? とバレてしまうかも知れない。しかし言い訳をすれば体罰よりも何百倍も心に染みるし広く考えてもらえれば嘘泣きではないのだ。松田聖子の涙の出ない泣き顔は修行が足りないなと思ったことあそこでは涙が絶対必要だった。だから、TVでも舞台でも泣けるシーンになると一方で冷めて観ている自分に気付く。ここで、こっちを見るかなあ? とか、何で腕組みかなあ。とか、これはアドリブでなければできないところだな、とか。いちいち感想を言うと横で「黙って観てて」と、叱られるので最近は首を傾げるぐらいにしているが、どうしても喋りたい時は、録画を巻き戻し、「ほらここ!」と賛意を求めてしまう。それがどうも嫌なのだとは気付いているがどうしようもない。そんな暇があったら食べたものを流しに運んで。と言われてしまうが、これは性格の不一致だとお互い諦め始めている。相手は、ひたすら私の我慢のおかげだと言うが、そうかも知れないと少し思い始めている。だからボクは人付き合いが苦手で友達も少ない。友達は大概100キロを超えた人と決まっている。一緒に食事をしてもとにかく食べるのが早い。人のことは言えないが。運動量が減って食べる量がかわらないのだから、現役をやめると殆どの人が太る。
I am fat.you too! である。今に見ていろと言ってはいるが見ていても何ら変わらない友人が殆ど。最近、60を越えたので、ややしぼみ始めている人もいるにはいるが、デブ=強い と言う公式はなかなか離れないので減量もできにくい。甘えた心の言い訳なのだけれど。あれ、痩せたかな。と、思っていると入院の知らせが後から届く。時には黒い縁どりがある知らせもある。その友人は太ったまま亡くなったのだが。(いきなり ちあきなおみ を思い出したが喝采するような場面ではないし、3年前でもない)

外国のように学校に演劇を取り入れた方がいい。国語や道徳でその役割を担っているが、心の中を探りたい現代や将来にはとても有益な学習だと断言できる。(探る必要など無いと思っている人も多いが私は違うと思っている)役になり切る。蜷川幸雄さんの演出方法を聞いて感心したのは、全員にその役の履歴書を書かせると言う方法だ。どこの生まれで、こんな経験をして今ここにいる。台詞のない人にも当然書かせると言う。でないと突っ立っているだけになってしまうのだ。最近、「サイレント・ヴォイス 行動心理捜査官・楯岡絵麻」をよく観ている。ウソをつく瞬間に0.2秒間だけ現れる、その人固有の"マイクロジェスチャー"を読み取り被疑者のウソを見破る。腕を組むしぐさは、「警戒している」「本心を探られたくない」「熟考したい」などの心理の表れなどと解説が入ると嬉しくなる。みんなもやっていませんか? 電話の時の母の声は1オクターブ高いことを経験していますでしょ! だからボクは学芸会の指導が大好きだった。他の教員は喋る時は一歩前に出て、「大きな‥。」の時は手を上にあげてラジオ体操をさせようとする。違うでしょ!と思っていた。その子の生活を振り返らせ、「大きな山だな〜」って言う時は、どうする? そう! 見上げるよね。そう、本当に手をおでこに当てる? 当てないよね。ってなるのだ。指導というより趣味、学芸会なのにリアリティを求めちゃって。どうしても大きな声が出ない子もいる。その時はお節介役の子を隣に立たせて「そうか、○○○がしたいんだって」と繰り返させれば済む。出ないものはどうやったって出ない。子どもはやっぱり縛っちゃいけない。恥ずかしがり屋の子どもにも褒めようはいくらでもある。「いいねえ、そのうつむき加減? よくできた!」これは本心だ。授業中も教員は腕組みをしない。腕組みは威嚇であり、自分の殻から出ようとしないことを伝えるポーズだから。両手を腰に当てて、私は今怒っているのだぞ。と、知らせることもあった。眉毛をあげるのはあなたを受け入れていますよ。のサインだ。だから子どもの話を聞く時は目線を合わせて眉毛を上げて聴くようにしていた。説得や、励ましは相手を右側に座らせ声はできるだけ低くしかも音量は下げる。教員は役者と似ているとはこの辺りが理由である。技術を先に話すといやらしく感じるが自然の仕草を言葉にしたまでに過ぎない。またまた下世話な事例で恐縮だがキスも同様、何通りかの場面設定からパターンを当てはめ、だんだんと近寄り首を傾げて‥。愛があればキスの技術などいらないと断言する人はおかしい。もっと相手を気遣うためにはどうするのかと技術論へと向かう。その昔、自分と同じように観察癖のある人が彼女になったことがある。飲み屋のカウンターで「こちらへどうぞ」と言ったら、私はこちらでないとダメなんです。と言われた。こういう時は肩が凝る。手を何処におこうか。時計は見ちゃダメだぞ。とか仕草や視線が気になって仕方がない。酔って距離が近付き、私の肩に相手の頭が触れそうだ。これは本心か、それとも演技か。彼女には今でも好意をもっているが現在、何処で何をしているのかは分からない。教育新聞に「心を読め」と言う内容の記事があった。教育者は空気を読みながら、心を読まなければいけない。論者は空気を読むことに否定的な表題を示したが空気を読み過ぎて何もしないのはいけないと言っていると解釈した。空気を読むことも社会人としては大切だ。ついでにもう一つ下世話な話で恐縮だが、遅れて参加した飲み会が、よい例である。「やあやあ! では一言」と言う場面で一言は出ない。駆けつけ三杯はできてもスピーチは無理。すみません、場の雰囲気が読めませんのでもう少したってからご挨拶します。と言うか、すみません、急いで来たもので息が上がっています。少しお時間をください。と、言った後にこの会場は、今、何で盛り上がっているのか? この会場での常識は何か、禁句は何かとか懸命に探るのである。やはり、言葉にするとずる賢く聞こえてしまいますが、みなさん無意識にしていませんか? または、いきなり喋って失敗した経験はありませんか? 繰返しになるが教育新聞にエンバシーとシンパシー(新橋じゃないですよ)について説明がなされていた。これはと思いコピペした。やはり人間関係が人間にとって厄介ではあるが大切なことなのである。

(以下コピぺ)
空気を読むのではなく人を読め
             (教育新聞2020.6.25)

エンパシーとシンパシーの違いについて

シンパシーは同情や共感など、感情の動きを示す言葉でエンパシーとは違います。エンパシーですが、自分と違う価値観や理念を持っている人が何を考えるのか「想像する力」のこと。シンパシーが感情的に作用することに対して、エンパシーは知的に考える作業だといえるでしょう。またエンパシーとは相手が体感していることを、自分の身をもって体感できる能力であるともいわれています。意識した領域から離れ、無意識レベルでも作動するエンパシー。日本人の5人に1人は、エンパシー体質を持っているともいわれています。

悩み相談をされた時にわかる二つの違い
例えば友人に悩みごとを相談されたとしましょう。辛い話を聞いているうちに相手の気持ちが伝わり、辛い感情を共感しますよね。「大変だね」と感情的に言葉をかけてあげるのがシンパシー。

エンパシーは苦しんでいる人がいる場所まで心理的に下りて、相手の気持ちをリアルに考えることなのです。自分がもし相談ごとを誰かに持ちかけるとしたら、ただ聞き流す人よりも自分の立場になって考えてくれるエンパシー体質の人を選びますよね。

エンパシーとは、愛する家族や友人などと接する際に欠かせない、考え方や感情作業なのです。とくにネガティブな環境にいる場合は、表面的に言葉をかけるだけでなく、相手の身になって痛みを感じたうえで励ますのが大切ですね。

頻繁に使うのはシンパシー

歌詞の中でシンパシーという言葉を聞くことがよくあります。シンパシーは日常生活の中でもよく使われ「共感」「共鳴」「同情」という意味で使用されています。シンパシーはもともとギリシャ語で、仲間意識を持っていることを意味する言葉。日本でも人の意見に共感した時に、シンパシーを感じるケースがあります。

よく間違えてしまうのは、恋愛とシンパシーの関係性。シンパシーは異性でも同性も感じることがあり、自分の価値観や意見が他者と一致した時に使う言葉です。エンパシーには恋愛に関係する意味はありませんので、もし使う時には少しだけ意識してみましょう。

エンパシー能力があるかチェックしてみよう

エンパシーとは他人から敏感に影響を受ける能力で、全ての人が当てはまるわけではありません。エンパシー能力があると困った人も助けやすくなり、周囲からも大切にされる存在になるでしょう。

しかし他者の心や思考を敏感に感じてしまうため、逆に自分で辛い感情を抱えてしまう場合もあります。ではエンパシー能力があるかどうか判断するために、エンパシー体質の人の特徴を見ていきましょう。

共通する大きな点は、自分の思っていることをなかなか言い出せないこと。相手の気持ちが手にとるようにわかるので、つい言葉を飲み込んでしまいます。

同じく心だけでなく、身体的にも辛い人の痛みを感じてしまう可能性もあります。体調を崩している人の近くに行くと、自分まで体調が悪くなること。

その場の雰囲気に流されやすく、人と話をすると相手が考えていることがよくわかってしまうのも、エンパシー能力の特徴だといえるでしょう。

エンパシーをコントロールする方法

エンパシーとは、シンパシーよりも扱いが難しい部分があります。エンパシー能力はとても素晴らしいのですが、中には振り回されてしまう人もいます。

では自分で能力を、オンとオフで切り替えるのは可能なのでしょうか。エンパシーとはあらゆるタイプがあり、身体直感型、感情合一型、身体合一型などがあります。

さらに上級者になると、動物と一体化するエンパシーも。この能力を必要な時だけ使うには、普段から自分の意識を集中させるのがコツです。

瞑想で頭の中をクリアにしたり、エンパシーを自分自身を守るために使ったり。相手の内側に入るのも大切ですが、まずは自分を優先させて好きなものに意識を集めることもオススメです。

エンパシー能力が自在になると、カウンセラーなどにもなれるかもしれません。今の時代は人よりも自分が先。他者との関係が薄れてしまう時代だからこそ、エンパシー能力はとても重宝されるのでしょう。それと合わせてシンパシーを大切にして、自分の感情を鍛えて敏感になっていく必要がありますね。

まとめ
エンパシーとは、一歩踏み込んだ人間関係に必要な能力です。周りの環境に反応されやすい人は上手に能力を使いこなし、自分の気持ちもどこかで発散する必要があります。エンパシーとシンパシーの違いを理解して、今後の素晴らしい人間関係にぜひ役立ててください。

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