裁判傍聴 悲しき窃盗犯くん 

はじめに

 皆さんは裁判の傍聴に行ったことがあるだろうか。

 裁判の傍聴と言うと少し前にそういった題材の漫画やルポなんかが流行ったと思う。そういった影響から観るようになったという人はネット上では結構目につく。
 また、昨今の「権利」を振り回す風潮からするとこの裁判傍聴というのも「せっかく持っている権利なんだから使わなきゃ損じゃない」という思想の持ち主にはお誂え向きの趣味(?)になるとも言える。

 裁判の傍聴ではやはり大きな裁判や裁判員裁判といった、あまりいい表現とは言えないが「派手な」裁判が人気となる。
 そんな「花形裁判」の影には小さな軽微な犯罪による裁判が多数存在する。私が今まで見てきた(そんなに数が多い訳では無いが)裁判の中ではそういったものが多数を占めてきた。
 そういった裁判というものが人目に触れずに我々の日常生活の影で粛々と行われている。それには確実に当事者が存在し、加害者がいて被害者がいる事象であり、そこには間違いなく人生というものが存在する。

初めての裁判傍聴

 ある日、私は近所の地方裁判所へと出かけた。よく晴れた夏の日で妙に気分のいい朝だったので前々から気になっていた裁判の傍聴に出かけることにした。道中、喫茶店でモーニングをし、優雅な朝の時間を過ごしてから裁判所へと向かった。土日休み私としては平日の朝にゆっくりモーニングを味わうというのはなかなか気分がいいものだ。

 裁判所の中は節電の為だろうか、一部の明かりが落とされ薄暗かったが冷房はそれなりに効いており夏の暑さに火照った体には心地よかった。野外の照りつける太陽で目が疲れ切っていたのでそういった面からも室内の薄暗さはありがたくもあるが、なんだか異質な雰囲気が漂っていた。

 エレベーターへと向かう中、何人かの人がついたてのむこうでなにやら仕事をしているのが見える。ついたての向こうの明かりが一層こちら側の暗さを際立たせ、こちら側とはまるで全くの別世界のようだった。
 エレベーターで目当ての階まで上がると私の他には誰も居らず、薄暗い廊下が続いている。辺りはシンとしていてホラー映画のワンシーンを彷彿とさせる、廊下の奥に水色のワンピースを着た双子が立っていても何ら違和感はない。
 本当にここで裁判をやっていて傍聴が出来るのだろうか、という不安に襲われる。なにかの間違いで雑居ビルの誰も借りていないフロアにきてしまったのか、そうでなければ裁判所ではあるがサイレントヒルの様な並行世界へと迷い込んでしまったのではないか、と本気で考えてしまう程の異質さであった。

 廊下を少し進むと一日のセットリストが掲示板に張り出されていた。裁判はちゃんと行われる予定があるようだ。妙な安心感が湧いてくる。それから私は開廷する号室の法廷へと向かった。
 
 物々しい木製の扉を開けると中はドラマで見るような、イメージそのままの「法廷」が広がっていた。明るく照らされた室内には厳かな雰囲気が漂っている。その中に一人書記官がなにやらゴソゴソしたり内線を掛けたりしている。

 傍聴人は私一人であった為、緊張しながらも証言台のよく見える右よりの最前列に座った。

開廷

 定刻になると続々とメンバーが集ってくる。昔観た洋楽のライブ映像を彷彿とさせる演出だ。弁護士に検察、刑務官に連れられた今回の主役である被告人。違うのはモッシュピットが無いところだ。
 彼は縄で繋がれた姿で法廷に姿を現した。いっそ清々しい様な様子すら感じられ、第一印象としてはどこにでもいる大人しそうな男性といった感じだった。
 ボーダー柄のポロシャツに青のジャージ、ダークグレーの化繊のパンツ。ポロシャツの襟が立てられて居たのは無意識か、あるいは彼のセンスによるものか。拘置所では服装の制限が設けられるので多少は致し方ないのかもしれないが、無地のTシャツにスウェットパンツやジャージの方がよっぽどマシな気がする。あくまでも私の個人的な意見だが。

 遅れてやってきた比較的若い女性(これが適切な表現かどうかは別としてとても美人であった)の裁判長が一礼し、それに合わせて私も起立し一礼する。そして裁判が始まった。
 
 まずは彼のプロフィールから。
・平成5年生まれ
・本籍地は高知県
・高校卒業後、航空自衛隊入隊 その後派遣社員に登録。
・同町内 大手企業寮在住(派遣社員)
 ざっくりとまとめるとこの様な感じである。
 
 事件の概要としてはドラッグストア化粧品売場にて約2万円分の商品を万引きしフリマアプリにて転売。転売の履歴と監視カメラにより発覚し逮捕に至ったというものだ。
 過去、同種の犯罪で三犯。動機としてはスロットによる借金(サラ金・闇金の類)の支払いの為に行った。今回は2〜5月にかけて複数回(10回以上)繰り返していた。
 裁判中、彼は絵に書いた被告人といった様子でうつむきがちに、かつ居心地悪そうに(当たり前だ、と思うかもしれないが中には妙に堂々と、なんなら食い気味に答えたり逆ギレする被告人も少なからず居る)、質問に答えていた。その姿にはどこか諦めの様な雰囲気が漂っていた。
 事件の概要を読み上げ、いくつか質問をする裁判官は淡々としており、冷たくすら感じられた(被告人が本籍地と住所を言い間違えたときには冷笑する素振りすら見せた)。
 そんな裁判の中で目についたのは弁護士や裁判官よりも検察が被告人に対して諭すような言動が多く見て取れたことだ。ドラマなんかでは被告人に寄り添っていそうな弁護士は国選だからか、どこか作業といった様子であった。
 弁護士も、検察も、裁判官も人だ。あくまでも確立された自我を持ち、職業がなんであれ、一人の人間であり各々が自身の矜持によって職務に当たっている。それが結果的に良いものとなるか、そうでないかというのはまた別だが。それにこれはドラマなんかじゃなく、現実だ。
 
 結局、彼が複数回にわたり犯行を繰り返していたことなどもあり追訴となった為(そもそも新件でその日に判決とはならない)、その日はそこまでで終わってしまった。
 
 初めて見る裁判は大変あっけなく、事務的な要素が殆どを占めている印象を受けた。私や被告人からしたら大切な一件の裁判だが弁護士、裁判官からしたらそれは「日常的な生活の一部」であるからそういったニュアンスを感じ取れるのも納得は出来ずとも理解は出来る。
 
 さて、裁判はあっけなく終わってしまった。表面だけを見るとただの小さな犯罪である。いってしまえば「どうしようもなく間抜けな犯罪」だ。
 そしてこういった犯罪は悲しいかな珍しいものでもない。目に留まることなく流れていくし、ニュースにもならないだろう。
 しかし、この裁判で見たことというのは氷山の一角に過ぎない。氷山というのは90%は水面下に隠れており遠目には目に映らない。恐らく私がない頭を捻ってもその残りの90%を全て見ることは出来ないだろう。しかしそこに何かがまだある、という前提で物事を見、考える事によって多少なりとも理解に近づく事は出来ると私は思っている。以下でこの裁判での所感をまとめていく。

悲しき窃盗犯くん

 奇しくも彼と私は同い年であった。暮らす場所が違えば私が彼の様に証言台に立たされていたかもしれないし、あるいは彼と私は友達になっていたかもしれない。
 いや、それはないか。
 
 そもそも、この事件を生むに至った真因に迫っていく。なぜ、このような事件が起きたのか。供述としての動機はギャンブルによる借金という要素が挙げられているがそれは真因となり得るだろうか。
 ここでは真因を探るのに某大手自動車メーカー的生産方式に組み込まれた所謂「なぜなぜ分析」を用いて探っていく。
 
犯罪行為を行ってしまった。
 それはなぜか?
借金の返済に現金が必要になったから
 それはなぜか?
スロット等ギャンブル(借金に至るようであればおそらくは依存症)
 それはなぜか?
生物学的要因、遺伝、環境要因、等が組み合わさった。
 
と、いった次第だ。
 
 ギャンブル依存症というのは端的に言えば疾患だ。疾患というものは多少予防することは出来ても条件が揃うと起こる。健康オタクで手洗いうがいに消毒を欠かさない人が風邪をひいたりするように。
 時にはまるで事故のように、当人にその様な結末が起こりうるものだという自覚をする前にその濁流に飲み込まれてしまう。そんな類のものだ。
 では、この場合においての真因というものはどこから来るのか。それはギャンブルが原因で借金を負うに至った時点、あるいはここまで犯罪行為を重ねるに至った時点でギャンブル依存に対しての治療が行われなかった。もしくは治療などが行われていたが、それが結果を残せていなかった。というところが真因となるのではないだろうか。
 実際、彼は同様の前科がある。その際に彼がギャンブル依存であるということは問題にならなかったのだろうか?それだけ前科を重ねる中で弁済などはどうやって済ませたのか?周囲のサポートなどはなかったのか?そういった疑問が湧いてくる。
 なんにせよ、そういったものがなんの効果も成さなかった結果だけはこの裁判で証明されている。
 
 中途半端な田舎町にはパチンコ店というものがショッピングモールよりも立ち並んでいる。そういった環境下では両親の影響でパチンコやスロットなんかを始めた、という風にギャンブルというものに抵抗なく手を出す人が多い。娯楽施設が少ない田舎なら尚更だ。ギャンブルを行う人間が多ければ多いほどにそこから依存症に発展するケースも比例して増加する。
 周囲の人間がギャンブルに対して肯定的な立ち位置で居た場合、依存症というものに対して「治療を必要とする」といった視点にはなりにくく、ギャンブルの負けをギャンブルで取り戻そうとする行為に対してもさほど違和感を感じないことが多い。その人の暮らすコミュニティにおいてはギャンブルによる借金というものすら「まあ、すぐに返せるだろう」なんて楽観視する人が居てもおかしくない。あるいは他人がギャンブルで負けて借金をしていたところで「まじエグいわ」なんて言って笑うだけでそれ以上、ギャンブルを止めたりしない様な無関心というものもあるかもしれない。

 結局の所、環境がこういった犯罪の種を産むということがわかる。 止める者が居らず、それを助長させる関係性、環境。そういったものが複合的に重なり合い、この結果を産んだと言える。
 また、正常な判断を失った人間が借金を出来るという現実。その上で医療につなげるための入り口が少なく、制約があまりにも多い。本人の意思という要素も必要になる。
 要は本人がギャンブル依存症というものを自覚し、それが社会生活を営む上での障害になりそれを改善しようとする意思がなければ医療へは繋がらない。逆説的に本人が問題だと思わない以上、そこから犯罪に走った場合にはそれを未然に(治療という手法で)防ぐ事ができない。ということになる。
 この事件はまだ被害者の身体に直接的な被害を産むものではなく、被害も金銭的なもので(恐らく)決着の付く類の事象であるからまだマシだがそれがそこに他者の命や身体を脅かす要素が含まれたならばどうだろう。
 これは社会制度としては大きな欠陥ではないだろうか。
 
 本件を起こした被告人は自業自得ともいえるが、ここに至るまでに彼を「守ろう」という意思が周囲になかったというのが伺える。そうでもなければ同様の前科をこんなにも重ねることはないだろう。
 こういった事件を起こす事は良くないことだ。起こすに至るまでに彼の中でこれが倫理的に良いものなのかどうか、という判断を下した上で実行に移ったというのはあくまでも当人の問題だ。それに他者は関係ない。しかしその周りを固める要素には間違いなく取り巻く環境側の責任というものは存在する。
 
 また、この事件を筆頭に昨今の犯罪行為の特徴に「インターネット、あるいはそれを介するアプリケーション」という存在が密接に関係している様に感じられる。
 インターネットというものは文明の発展に一役買うと同時に我々の生活の中で今では必要不可欠なものになっている。しかし、それと同時にこういった犯罪に使われる様になって久しい。
 インターネットを介する事により、匿名性というものが高くなったり、相手の顔を見ずに売買に及ぶことが出来る。人間、後ろめたい気持ちがある時に対面して向き合うことを避ける。それが簡単な審査で転売が出来る環境が出来たことでこの様な犯罪が増えたように思う。
 とはいえ、真っ当な思考回路を有した人間であればそんな事はしないし、結局その犯罪が明るみに出るということが容易に想像出来る。
 
 では、何故彼はこの様な犯罪を複数回にわたり繰り返してしまったのか。発端は恐らくギャンブル依存と借金によるある種の躁状態などが原因となり、言ってしまえば「魔が差した」という様な状況だったのだろう。 あるいは借金を重ねていた金融関係者の入れ知恵かもしれない。
 それから2回、3回と繰り返した理由とは何か。それは恐らく「何とかなった」からだろう。成功体験としては些か弱いし、私の目から見て「何とかなった」様には見えない。しかし彼からしてみれば犯罪を犯し、裁判になったものの変わらずギャンブルが出来てそれなりに自分の欲求を解消出来る生活に戻れた、という事実は「何とかなった」の範疇となり得る。金融関係の人間に対しても「やれることはやったんですがね、へへへ」といったスタンスを取ることが出来る。それらは間違いなく彼の中での成功体験というカテゴリに分けられるだろう。故に同じ様なことを繰り返すのだ。
 戻ってこれると分かったことにより、晴れて彼にとっての「やってもいいこと」という選択肢の一つに加えられた訳だ。
 人は経験によって行動の範囲を広げる。海外旅行にハマる人は自分の力で遠くへ行けた、というある種の成功体験で範囲を広げていく。ものづくりが好きな人は自分の力で何かを作り上げたという体験が作るものを発展させ、その範囲を広げてまた新しいものを作る。
 それが彼にとっては犯罪行為を含む金策だったというだけのことだ。
 
 また、職に就いていながら何故借金の返済が進まなかったのか、というところだが、未来の自分が受けるものを前借りしている様な状態でありながらいざ現金が手元に来て、返済する段になると「なんだか損をしている」という心理になるからだろう。支払った後に自分に残る預金残高を考えると出来ることが一気に制限されてしまう。その視覚的な、形として残る現実がその思考を助長させるのだろう。
 一見するとただの愚か者マインドでしか無いし、払うものは払うのが一般的な社会人だろう。しかし、それと近しい感情を抱く人というのはさほど珍しいものでもない様に思う。
 というのも身近なもので例えると、元カノがきれいになっていたり、元カレがカッコよくなっていたり、あるいは仕事なんかで成功しているのを見て「あの時別れなければ」なんてことを言い出す人もそれと近いのでは無いだろうか。全くの見当違いな損得勘定というもの自体はさほど珍しくない(と思う)。
 彼と他者達とを隔てるものはやはり一線を越え、それでいて「どうになかった」と感じてしまったことだろう。どうにかなった、ということは支払いをしなくても大丈夫。その思考の末に「支払う必要はない」という変化を遂げてしまった。それが答えのように思う。
 経験というものは人の人生を豊かにもするがこういった形で社会生活を営む上で必要とされるであろう価値観を歪め、生活を豊かさから程遠いものとし得る要素にもなるというのは皮肉なものだ。
 

 我々が人間として生きている中でその価値観を歪めてしまう要素というものは誰しもが持っているものだ。それが致命的なベクトルに向くか向かないかという些細な違いでしか無い。
 誰にも彼のことを笑うことは出来ない。
 
 でもやっぱり間抜けだし、救いようが無いよな(笑)

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