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「エーリッヒ・フロム 孤独を恐れず自由に生きる」読書メモ

こちらの本を読んでのメモです。

フロムは「人間はいかに生きるべきか」への答えとして、なによりも人間存在の内に「理性」と「愛」を発達させることを勧める。

この、どう生きるべきか、については自己啓発系としていくらでもあるテーマなのですが、そもそも、なぜ人間はそんなことを考えるのだろうか?とも思います。

大きな転換はニーチェの「神は死んだ」ぐらいからでは?と感じます。
それまでは、生きる指針や意味は神が与えてくれました。

自分の生きる意味は最初から神が決めていて、人生でそれを探す。そして、最後の審判で天国に行く。というストーリー。

身分制などもあり、庶民は貴族になれないし、生まれた時から職業も決まっているような時代では、現状を受け入れ、そこで生きるしかなかった。来世で幸せになりましょう、と。

近代資本主義の発達や宗教というものが絶対的なものでなくなってくると、人間至上主義が生まれて、現世での幸福追求が当たり前になってきます。

物質的に全然足りていない時代は、物質的な豊かさと幸福がイコールでしたが、現代のような物質的に満たされている日本だと、それ以外に幸福を追求していくようになります、自分らしく生きる、とか、好きなことをやって生きる、とか。

この幸福追求自体は、古代ギリシアの頃からあり、それは良いのですが、幸福追求が資本主義の原理に飲み込まれていき、「もっと幸せを」と追求し続けるようになってしまっている気がします。

近代資本主義は、前近代の伝統的身分社会を破壊した、しかしそのことはすべての人間を自由にしたという正の側面だけではなく、人と人との温かなリアルのつながり「絆」を破壊したという負の側面もあった。人間は自由になると同時に一人で世界に対峙せざるをえない孤独な存在になった。

孤独になり、幸せを追求せねばならず、自分で強くいなければならない、というのは結構大変そうな感じです。なので、そういう不安感を持った人たちが権威に寄り添ったり、より弱者を叩くとか、声の大きい人に従うとか、そんな感じになっている気がします。

自分で決めれば誤ることがあるが、権威が決めてくれれば「安心」だ。
権威に背を向ければ孤独になるが、権威の側にいたら「安心」だ。
何かあっても責任を取らなくて良い。

こうなってくると、全体主義的な社会や、同調圧力が強くなったり、極端なポピュリズム政治になっていったり、、、と不穏な社会になりますね、、、

ユーチューバーなどに影響を受けまくるような人もこれに近い気がします。

人間は、自分の理性によって判断、決心しなければならない時には孤独でなければならない。

権威や同調圧力、空気といったものに、考えずに従属するのではなく、自分の理性で判断しなければならない。そのためには孤独である必要がある、でも世界市民となれば、一人ではないよ、そんな言葉も続きます。

会社や国家のような自分の狭い社会を超え、広く「人類」に所属している人が「世界市民」である。
この自覚を持てる人は「良心」に従って行動する。そして、世界市民であることができれば、たとえ自分の属する社会から切り離されたとしてもほはや孤独ではない。

本当に失ってならはないのは「ヒューマニティ」
1つは連帯する対象としての「人類」もう1つはおのれの内なる「人間性」としての「理性」「良心」すなわち「自分自身」である。

論語の「徳は弧ならず、必ず隣あり」みたいな感じですね。

そして、愛する、という能力についても説明し、愛すること自体が幸せであるというような、話しにもなるのですが、この「愛する力」だけで一冊あるぐらいなので、その本も読んでみようかと思います。

どう生きるべきか、どうしたら幸福な人生を過ごせるのか、を考えるのは良いにしても、最短距離で答えが欲しい、と思っている人や、資本主義パワーによる広告、SNSに振り回されて、幸福にならないといけないというような強迫観念を受けてしまう人は、なかなか大変な気がします。

自分のアイデンティティを疑っては生きていけない。
自分と自分の力によってではなく、他者が自分をどう見るかをアイデンティティの基礎にしようとすれば、そのようにして見出される自分は玉ねぎのようなものでしかなくなる。次々に皮をむいていくと最後は何も残らない。

禅の修行のようなものや、古典にあるような克己とか自律とか、そういったものを学びながら葛藤や悩みを乗り越えながら自分というものを確立していき、そうするとその先に見えてくるようなものな気もします。

考え続けること、問い続けることが大事だな、と。

かなりタイパは悪そうですが、人生にタイパを求めてしまうと浅い人間にしかならなそう、、、

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