見出し画像

涙が流したもの

ある女性が、ストレスを解消するために風呂場で泣くと言っていた。その人は普段ニコニコと明るい人だったので、意外だった。意外というか、ギャップがあった。そのキャラクターに陰影を与えるような、悪くないギャップだと思う。

「ストレスの解消法」として涙を流すことが、一つの考え方としては理解できるが、体感としては理解できていない。

自分のストレス解消法は、運動したり、人と話したり、カラオケで歌ったりすることだ。
自分と彼女のストレスの解消法にどんなギャップがあるのか考えてみたい。

思ったのはストレスの種類が違うのではないかということだ。例えば頭を使う仕事をするのはストレスだが、その解消法は美味しいものを食べたり運動したりといったことで、泣くことではないんじゃないかと思う。アスリートの厳しい自己管理から発生するストレスについても、解消するために泣くのはあまり想像できない。

一方、心の軋轢からくるストレスだと泣くのは合ってるかもしれない。例えば客商売でいろんな客に接しすぎて疲れたとか、人間関係に疲れたとか。

つまり頭を使ったり自分を律するような左脳的な行動からくるストレスの解消法として「泣く」はふさわしくなく、人間関係などの軋轢などからくる右脳的なストレスの解消法として「泣く」のはふさわしいのではないか。

思えば自分だって極度に感情的になったときに泣くこともあった。泣くことで自分の心に沈殿した感情が浄化される感覚はあった。彼女はその感情の澱を浄化する方法として、泣くことを習慣的な行動にしたのだろう。

自分は習慣的に泣く気にはならない。これは生まれ育った文化の問題なのかもしれない。自分は男だし、あまり日常的に泣くという行動が馴染めない。それよりはこうやって文章にするほうが自分にフィットするし、気持ちよく生きていられる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?