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「上手くいった」というまやかし#11

 インタビューゲームをしていて、未だに拭えない感覚がある。

 僕は他己紹介文を書くことが苦手だ。

 インタビューを終えた後で、20分程度で他己紹介文を書く。その最中に未だに葛藤を感じることがある。
 聴いた内容から情報の取捨選択をして、どのような順番で組み立てていくのか。編集と構成の過程でいつも、息が詰まってしまうことが珍しくない。

 時折スムーズに書けたと思える場合はあるが、引っかからずに書けたことと自分の中での納得感は直結しない。
「もうちょっとできたのではないか」といつも自問している僕がいる。

 あまりにも上手くいかないので、1度他己紹介のフォーマットを作ろうとしたことがある。しかし、その時は文章がとても退屈なものになってしまったので、途中で書き直した。
 インタビューゲームは個性が出るからこそ面白いのであって、枠組みにはめてしまうと、「その人らしさ」がごっそり抜け落ちてしまうのだ。

 ただ、不思議なのだけど、自分では納得できていない文章を、相手の方は面白がったり、嬉しがったりして受け取ってくれる。
 相手が気遣ってくれている可能性はもちろんあるけれど、おそらくそうではない。なぜなら、僕も相手の方が「全然上手く書けなかった」という文章に感動した経験が何度もあるからだ。

 じゃあ、上手い文章とはどんなものを言うのだろう?

 文法を守っている。心を揺さぶる。詩的な言い回しがある。
 ある条件が整っていれば、それが合格点を与えられるかといえば、そんな単純な話ではない。そこには異なるお互いの感性があるからだ。
 自分が良いと思うものを相手が喜んで受け取ってくれるとは限らないし、その逆もまたある。

「上手くいった、失敗した」という実感は、ただの思い込みでまやかしに過ぎないのだ。

本当に上手くいったものは手応えがない

『手応えのないものを見落とさない』
各インタビューの合間にも、ちょっとした対話が入りました。
だからと言って、長くなるわけでもなく、「じゃあ次やろっか」とどちらから言うでもなく始まる。いわゆる繋ぎの部分がとてもスムーズでなんの違和感もなく進んでいました。
ガッチリと噛み合ったものは、手応えがなさすぎて、見落とされてしまう。
だけど、その何気ない話こそ理想に近いのかもしれません。
「次なに話そうか」と考えるまでもなく、もうすでに言葉が発せられている。
受け取って、また渡して、それを繰り返す。
ともすればいつまででも話し続けられそうな、でもいつまで黙っていることだってできそうな、阿吽の会話。尊かった。

 50人の回数には数えていないのだけど、同じ人と2度目のインタビューゲームを行ったことがある。その時の振り返りで上記の内容を書いていた。

 僕達はついつい手応えを求めてしまう。
 けれど、どこかで抵抗があるからこそ手応えがあるのではないだろうか?

 病気でもない限りは呼吸するのに、手応えを感じることはないだろう。
 つまり、本当に上手くいっている時には、なんの手応えもないままに終わっているのだ。いちいち考える必要なんてない。心臓が脈打つようにスムーズに、自動的に始まって、終わっている。スタートとゴールの境界線すらもわからない。

 もしかしたら「なにも考えなくても、直感的に身体が動き、物事が全て進んでいく」というのが理想形なのかもしれない。
 それを目指すために、葛藤し、試行錯誤し、喜びと悔しさを噛みしめているのだ。

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