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生活する沖縄 #3|全開の窓、食卓のもずく

たった2ヶ月ちょっとだけど、
そこに家があって、料理は自分で作るし、行きつけの弁当屋さんもできた。
その上、節約のために野菜とお肉は別々のスーパーで買うときたらもうこれは生活と呼んでいいのではないか。
旅行記ではない、沖縄での日々の記録です。

その日は離島に向かった。
沖縄近海には島がたくさん浮かんでいて、飛行機やフェリーだけじゃなく、車で行けちゃうお手軽島もいくつかある。


海中道路と呼ばれる道を通って島に行くと知った時、
車と並び泳ぐジンベイザメや、外国のお菓子みたいな色彩の小魚たち、目下に揺蕩うクラゲの銀河を想ってしまうのは、きっと僕だけではないはず。

まだ小さかった頃に初めてアクアラインを通った時、それが海の中の道路だと聞いていたから、あまりのノーマルトンネルっぷりに愕然としたことを記憶している。
アクアラインがただのトンネルであることは、サンタクロースが身近な誰かであることと同じくらい慎重に慎重に子どもたちに伝えていかなければならない。絶対に。

もちろん今回の海中道路もただの橋で、橋といっても海抜2メートルくらいの位置を走っていたから、海上道路とか呼んだ方が犠牲者は少ないのかな。

そんな海上道路を抜けた先のその島には、小さな集落が二つだけある。
片方の集落には海に突き出た神様のお墓があって、そこへ観光の人たちがポツポツやってきては同じ角度から写真をとっていた。

この島には本島とはまた違う独自の神話があるそうで、海ってのは目に見えるものもそうでないものも、想像以上にはっきりと別つ力があるんだなと思った。



かつてこの集落には、掛け払いの文化があったらしい。
つまり、お金が入ったら払うからつけといて〜ってやつ。

〇〇さんの掛け分もらったら払うから!の輪が広がっていき、いつしかその集落からは商店が無くなったんだって。
人を信じるのは、あたたかいけど難しい。


それはそうと、集落という言葉から感じる未開感はなんだろうか。
漢字の単語って、たまに記号や意味以上の何かを帯びていると感じる時がある。
惑星とか、亡霊とか、八月とか、深夜とか。
なんだか朧げに色が浮かんでくる感じがする漢字


この島には、いつもお世話になっている学芸大学にある本屋さんの姉妹店があって、そこへ行って色々とお話をした。
店主の方が作った島の地図を見ると、もう片方の集落に夕陽が綺麗に見える浜があるというので、1時間後の日の入りに向けて、よく晴れてまるで夏休みみたいな空の下を走った。


もう一つの集落は港の色が濃くて、もずくをそこらじゅうで栽培していた。文字を打っていて気づいたが、もずくは水雲と書くらしい。超かっこいい。あんな酷い見た目してるのに。

浜に向かう道すがら、家の軒先でやっているような小さな食堂を見つけた。
魚のバター焼きと水雲の天麩羅(あまりにもカッコいい)、もずくコロッケを食べた。魚は変な魚と、変な魚の2種類から選ぶことができたので、オジサンという名前の魚を選んで焼いてもらった。

その日はおばあちゃんが1人で回していたので、一つずつコース料理のように出されてくるそれらを順に食べた。本当に美味しかった。

外のテーブルで食べたのだけど、どうやら家の中で食べてもいいらしい。
意味がわからないけど、看板に書いてあるんだから、どうしたって食べてもいいのである。


家の中を覗いたら、おばあちゃんの孫がアイスを食べていた。
もずく酢を食べたいと叫んでいたけど、おばあちゃんにはあまり伝わっていなかった。


辺りの家からは、各々の夕飯とテレビの匂いがしていて、どこも窓をすべて開けていることに気づく。
食堂の窓を覗くと、炊飯器が三つ並んでいた。

島中の家が窓を開けているからか、
島を一本の風が吹き貫いてゆくような、そんな風通りの良さを感覚していたところで、夕陽を見るのを忘れたまま日が暮れたことに気がついた。

おばあちゃんは、真っ暗だけどまだ見えるんじゃないかな、と言ってくれた。



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