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獺祭魚

このところずいぶんと暖かくなってきたけれども、山中にはところどころに残雪が見え、さらさらと流れる渓流の水もまだ冷たさを残しているようだ。滑り止めのある長靴を履いているとはいえ、油断して川にでも転がり落ちてしまえばことだな、と考えながらごろごろとした岩場を渓流に架かった細い吊り橋の上から眺める。

釣りを始めてからずいぶんと経つ。子供が独立して肩の荷が下り、定年退職になってこれで家でゆっくりできると思っていたら、家にいても妻に邪険にされるようになって、逃げるようにして釣りを覚えたのがきっかけだった。

釣り、といっても大きく分けると海釣りと川釣りがあると思うが、自分は渓流での釣りを好んだ。別に深い理由があるというわけではなく、単純に船酔いするから。

家にいないというのが目的だから、釣果などはどうでもよく、太公望を気取れるのが気楽で良かった。どちらかといえば釣りそのものよりも付近の名物を楽しんだり名勝をのんびりと訪れるのが目的になっていた。

そういえば昼の蕎麦は旨かったな。
蕎麦屋の店主との会話を思い出す。

「この蕎麦は旨いね」

昼食でも取るかと、とふらりと立ち寄った蕎麦屋で茶を注ぎにきた店主に告げる。

「そうですか、ありがとうございます」
「これは日本酒に合いそうだ。おちょこ一杯だけもらうことはできるかね」

電車とバスで来ていることもあるし、おちょこ一杯分くらいならいいだろう。

「できますよ、何にされますか」
「おすすめは?」
「そうですね……獺祭などはいかがです?」
「じゃあそれをもらおうか」

獺祭。そういえば俳句の季語にも「獺魚を祭る(たつうおをまつる)」とあった気がするな。確か二月の半ば過ぎだったはずだから、ちょうど今時分か。俳句を趣味とする妻を持つと季語にもおのずと詳しくなる。

ほどなく運ばれてきた澄んだ酒をちびりとやりながら、獺(カワウソ)がまるで先祖を祭るように川べりに捕った魚を並べる様を思い浮かべる。冗談のような光景ではあるが、どうやら実際にカワウソにはそのような習性があるらしい。
もっとも日本にいたニホンカワウソは明治から昭和初期にかけての毛皮の乱獲で激減し、加えて高度経済成長期の開発で住処を追われてもはや絶滅したと見なされている。

最近ではコツメカワウソをペットにするのが流行りらしいが、カワウソからしてみれば人間など恨みの対象かもしれないな。

ちょうどこんなところで暮らしていたのだろうか。回想から意識を戻し、吊り橋を渡りながら川面を見つめ、カワウソに思いを馳せてみる。

ふと、橋から覗く川べりに、横たわる人影が見えた気がした。おや、と思いはしたもののここからでは木々に遮られてよく見えない。見間違いかとも思ったが、転倒して河原の石で頭でも打った人だとすれば放っておくわけにもいかない。

地元の人が使っているのだろうか、橋のたもとに川へと下りる小道を見つけたので、そこを通って慎重に川べりへと下りていく。枯れ葉の積もった土はぐずぐずになっており、油断すると滑り落ちそうになる。助けるつもりのこちらが怪我してしまっては元も子もない。いったんは自分の足元だけを見ることにしてゆっくりと下りていった。

ようやく下りきってから改めて川べりを見ると、橋の上からは気づかなかったが、岩場に三人もの人間が並んで横たわっている。年齢はバラバラだが格好からするといずれも自分と同じような男性の釣り人だと思われた。ぴくりともせず、少なくとも意識はなさそうだ。
恐る恐る近づいていくと、全身がずぶ濡れとなっており、その足元から滴った水はそのまま川へと繋がっており、川から引き上げられたように見える。

……これは、いったい何だ?

自分が近寄っていっても動かないところからうすうす察してはいたが、三人共がすでに血の巡りが止まったことによって真っ白になった肌を冷たい外気にさらして、息絶えていた。息絶えるまでにわずかにでも意識があればもう少し体勢に乱れがあるはずだが、まっすぐに体を伸ばして横たわっている様はまるで打ち上げられた魚を思わせた。
ということは彼らは息絶えた状態でここに並べられたのだろうか。

しかし、ならば一体誰が彼らをここに並べたのか。

あたりを見回すと、川の流れが浅瀬となって淀んでいるところに、クーラーボックスがぷかぷかと浮かんでいた。膝元まである長靴を履いていることを幸いに、足元に気をつけながらザブザブと川に入り、浮かんでいたケースを拾い上げる。蓋が半開きとなっており、中には誰かの釣果であろうヤマメが数匹、几帳面に並べられて入っていた。

魚。並べる。

先ほどまでのんびりと考えていた言葉が不気味さを持って脳裏に浮かび上がる。

獺祭魚。獺魚を祭る(たつうおをまつる)。

そういえば、カワウソは石川県や高知県では河童の一種とも言い伝えられているらしい。曰く「獺(かわうそ)老いて河童(かはらふ)に成る」。

いやいやまさか、と思いながらも気分が悪くなり、川から出ようとする足を、鋭い爪を持つ毛むくじゃらの手が掴んで、そのまま川へと引きずり込んでいった。

どぷん。

叫ぶ間もなく「それ」が男を川に引きずり込んでいった後には大きな波紋が一つ出来上がったのみで、そのまま何事もなかったかのように冷たい川が流れているだけであった。


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