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佐賀のサーガ(年代記)と大隈重信

鍋島直正と岡田三郎助

佐賀城跡地の公園には、ゆっくりと散歩を楽しめる、開放的な空間が広がっている。

公園の中にある、城の歴史館や博物館、美術館では、日本の近代化に貢献した数多くの佐賀人士の功績が紹介されている。

城門の近くでは、佐賀藩の10代藩主、鍋島直正(閑叟)の銅像が目を引く。直正は、藩の財政改革、藩校弘道館の拡充、西洋の科学技術の活用などを行った名君だ。

梅雨時の晴れの日に、佐賀を訪れた。

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また、博物館の脇には、洋画家、美人画で有名な岡田三郎助(1869-1939)の銅像があり、移設された彼のアトリエがある。岡田のことは作品の「あやめの衣」を目にしたことがある程度の知識しかなかったが、美術館では、岡田が自宅のアトリエで女子生徒らに洋画を教える昔のビデオの上映があり、興味を引いた。約100年前に撮られた珍しい映像だが、画家の卵たちの表情は現代の女性と比べてもさほど違いが感じられないほどに生き生きとしていた。岡田は、女性の様々な生き方や社会進出を後押しした先進的な人物としても記憶されている。佐賀出身で、フランスの留学経験があり、今の東京芸大で教授をしていた彼は、第1回文化勲章を受章している。

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佐賀の魅力度ランキング?

佐賀県の人口は約80万人、佐賀市の人口は約23万人と、県単位、県庁所在地単位の人口規模でいうと、九州では一番小さい方だ。

面積では、東京、神奈川、大阪と比較すれば、佐賀の方が少し広いぐらい。電車から見える光景としては、平野が広々と伸びている印象だ。古代の邪馬台国論争で一大ブームを引き起こした吉野ケ里遺跡は県内にあり、その広大な敷地を窓外に目にすることができる。

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佐賀県は九州の北西部に位置し、北東を福岡県、西南を長崎県と接している。また、北は玄海灘、南は有明海の海に面しており、陶磁器でも有名な唐津、伊万里、有田は、佐賀県北部に位置する。博多から佐賀市へは電車の特急で40分程度と近い。

やや意地の悪い、県別魅力度ランキングという調査では、近年、佐賀県はどちらかというと、後ろから数えた方が早い。地元では色々と言い分はあると思うが、全国的には、佐賀といえば、芸人の江頭2:50が有名なようだ。他には、佐賀出身の著名人でいうと女優の松雪泰子さんがいて、ソフトバンクの孫正義さんも佐賀の鳥栖市出身である。

薩長土肥と七賢人

今でこそ、佐賀は、やや他県に押され気味の印象だが、幕末・維新の時代は、薩長土肥と称された雄藩の一つである。肥前の佐賀藩は、薩長に次ぐ政治的な影響力を持っており、日本全国で一目を置かれる存在だった。

佐賀駅から佐賀城跡へと向かうバスに乗りながら街を眺めていると、歩道に立つ佐賀の七賢人の銅像が目に入る。

佐賀の七賢人とは、先の藩主、鍋島直正(1815-1871)に続き、島義勇(1822-1874 北海道の開拓)、佐野常民(1822−1902 日本赤十字社の創設)、副島種臣(1828−1905 外務卿)、大木喬任(1832−1899 文部卿)、江藤新平(1834−1874 司法卿)、大隈重信(1938-1922 大蔵卿)の七人を指している。(括弧内は主な業績や明治新政府での役職)

いずれも、幕末から明治にかけての時代で活躍した人たちであり、佐賀の人たちが敬意をもってその名を挙げる存在だ。

もし、この時代に、県別魅力度ランキングあったとしたら、恐らく、この七賢人のブランドをもってすれば、佐賀は全国トップ・ファイブに入る可能性は十分あるだろう。

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長崎との近接性

幕末・維新の時代に、なぜ、佐賀藩は、有力な地位を占めていたのだろうか、その理由の一つは長崎との地理的な近接性にあると言えそうだ。

江戸時代、外国との交易窓口である長崎を防衛するのは、地理的に近い佐賀藩と福岡の黒田藩の役割だった。江戸末期に至り、幕府は、日本を窺う外国船舶の出没に敏感になっていた。
こうした中、佐賀藩は、いち早く反射炉を築き、大砲や蒸気船を建造して、国の海防力強化で先駆的な役割を果たしていた。ちなみに、勝海舟ら、多くの維新の志士たちが学んだ長崎海軍伝習所(1855-1859)には、佐賀藩が他藩を制し、最も多くの人材を送り込んでいたようだ。

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また、長崎から近い佐賀は、西洋の文物や最新の情報をいち早く取り入れることができ、藩政や子弟の教育に生かすことができた。
藩では、開明的な大名、鍋島直正の下、藩校である「弘道館」の中に蘭学塾を設け、長崎には英学塾「致遠館」を開き、外国人の講師を招いて、藩士の子弟に西洋の社会制度や医学、物理、化学等の知識を積極的に学ばせていた。倹約家で知られた直正だが、教育に費用をかけることは惜しまなかったようだ。
こうして、佐賀藩は幕末や明治に活躍する数多くの人士を輩出し、中央への影響力を保持することができた。

先に、触れた佐賀の七賢人の共通点は、いずれも、藩校、弘道館の出身である。尚、弘道館は、同名の水戸の弘道館に先立つ18世紀末に開校しており、当時、全国的にも評判の高い学校となっていたようだ。子弟の学業の成績が悪ければ家禄が減ぜられるという厳しい教育システムであったことも付記しておきたい。

大隈重信記念館

さて、佐賀城の跡地から歩いて5分ほどのところに、佐賀藩の藩士たちが住んでいた、今では住宅地となる一角に、大隈重信の生家がある。この地に、記念館が併設されており、訪れてみた。生家を背にした中庭には大隈の銅像があり、記念館では、大隈の生涯を学ぶことができる。

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大隈重信はいうまでもなく、早稲田大学の創立者として有名な人だ。明治の新政府で官僚、政治家として活躍し、二度に亘り内閣総理大臣を務めているが、このことを知る人はさほど多くはないかもしれない。ましてや、野球の始球式で、ピッチャーに敬意を表して、バッターが空振りをするという慣例は、実は大隈が始まりだということを知る人はまず少ないだろう。ほぼ1世紀も前に、早稲田の野球部がアメリカの選手団を招いて親善試合を行った。始球式のピッチャーは大隈だ。しかし、足に難を抱えながら投球した大隈のボールはストライクを外した。大隈に敬意を表したバッターが空振りをして、ストライクにしたことから、この慣例は始まったといわれている。

記念館の中には、大隈の大きな右足の義足が陳列されている。大隈は、外務大臣の頃、不平等条約の改正で奮闘中の51歳の時に、右翼の活動家から爆弾を浴び吹き飛ばされている。一命は取りとめたものの、右足の3分の2を切断するという重傷を負った。以来、義足は終生、大隈の体の一部となり、始球式に臨んだ大隈の準備がいかに大変であったかを想像するに難くはないだろう。

先に挙げた、佐賀の七賢人の中では、大隈は年次では一番若く、また、長生きをしており、その影響力も傑出している。

大隈重信は自ら書いた伝記を残していないが、自分の生涯を回顧談や演説、談話等で語っており、それらを編集したものが、早稲田大学から『大隈重信自叙伝』、『大隈重信演説談話集』の2冊にまとめて出されている。

これらの本から、やや長くなるが、幕末・明治・大正という時代を生きた大隈の足跡を辿ってみたい。

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大隈の書生時代

学生時代の大隈は、先に挙げた佐賀藩の藩校や長崎の英学校で、漢学や洋学を学んでいる。

西洋の地理や歴史、政治、物理等の知識を学んだ中で、とりわけ関心を引いたのは、スペインから独立したオランダの建国法やアメリカ独立宣言に関することだったという。そこから自分は、自由思想、立憲主義を学んだと述懐している。

また、大隈は20代の前半、長崎で英学研究を深めることになるが、この時期、外国人宣教師フルベッキらの教師から、キリスト教やアメリカ憲法を学んだようだ。

彼は、西洋の社会、経済、兵制、軍術、通商、貿易等の、活きた学問を学ぶ中で、これからの時代は漢学ではなく、英学が必要なことを確信したようである。

大隈は、佐賀藩での開明的な教育環境の下で、西洋の新思想から大きな影響を受けた。
黒船来航(1853)以来、世の中も騒々しくなる中、佐賀藩の書生の間では、攘夷や開国をめぐって激論が戦わされていたようだ。
大隈らは西洋の学問を学びながら、新時代で活躍する自分たちの出番に備えていたのである。

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官僚、政治家、教育者として

1868年、大隈が30歳の時、明治新政府の役人として採用されて以来、大隈の活躍には目覚ましいものがある。

最初に手腕を発揮したのは、当時、最も勢いのあったイギリス公使パークスとのキリスト教解禁をめぐっての交渉である。この時、大隈は、政府を代表して堂々とした論陣を張り、一歩も引き下がらず、相手と対等に交渉したことで、名を上げることになった。
大隈は、キャリアで最初のチャンスを、藩校、長崎で学んだキリスト教、英学の知識を生かしてつかむことになった。

その後、数々の外国との交渉で実績を上げ、内政においては、地租改正、殖産興業の推進などの課題に携わり、早くも1870年、32歳の時には、国政の最高機関の一員として、大久保利通、木戸孝允、三条実美、岩倉具視らと肩を並べることになる。やがて、西南戦争を経て、明治の元勲と呼ばれる人たちが退場していく中、1878年、40歳の時に、官僚としての実質的トップの地位にまで登り詰める。その後、官有物払い下げをめぐる政争、明治14年の政変(1881年)で職を辞すまで、実に、13年間に亘り、激動の明治初期の外交、財政、経済を司る行政のど真ん中で活躍することになった。

下野した大隈は、その後、政党を立上げ、国会開設の運動を行い、議会政治の実現に奔走する。そして、新聞や演説会を通じて、国民世論を喚起し、選挙を通じて国民が政治家を選ぶという時代を切り拓いて行く。

さらに、大隈は、学問の独立、国民教育の重要性を早くから認識しており、下野してすぐの1882年に、早稲田大学の前身となる東京専門学校を立ち上げている。学校は幾多の困難を経ながらも、大学として認可され、初代総長となった大隈は、後の1917年、早稲田大学創立35年の式典で、大学の創設と運営に貢献した小野梓や渋沢栄一らの功労者を称え、また、大隈講堂の建設に関し協力を呼び掛けている。尚、大隈は、日本女子大学、同志社大学の創設を支援した人でもある。

以上、大隈は、官僚、政治家、教育者として、目覚ましい活躍をして、近代日本国家の建設に大きく貢献することとなった。

中央での活躍の後、大隈が佐賀に帰るのは、故郷を飛び出してから30年近く経った齢58歳の頃である。その後も、晩年に幾度か佐賀を訪れ、佐賀藩主、鍋島直正の銅像の除幕式にも参加している。

大隈は、84歳で充実した人生を終えた。来年は大隈没後100年にあたる年であることも付記しておきたい。

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福澤諭吉と大隈重信

さて、余談となるが、自叙伝の中で、大隈が少し肩の力を抜いて語っているところがある。それは、慶應義塾の創立者、福沢諭吉との出会いとその後の両者の友情を語るところだ。

大隈は福澤より3歳ほど若い。ともに30代で、すでに世の中で名を成しており、互いにその名を知ってはいたが、なんとなく相手を生意気な奴だと思っていたという。
ところが、1874年に、偶然、会合で出会った二人はすぐさま、胸襟を開き、100年来の友人のごとく打ち解けて語り合ったという。そして、二人は生涯に亘って友情を分かち合い、互いに敬意を失わなかったようだ。

福澤は、官職に就かず、政治には距離を置き、西洋の思想を広めて、明治の社会に有為な人材を育成することに注力した人である。

しかし、先にも触れた大隈が失脚する明治14年の政変では、福澤と大隈は同類と見られ、世上、福澤が参謀で、大隈の裏で暗躍していたと見られていたことを大隈は冗談交じりに語っている。

大隈にとっての福澤は、当時の情勢や西洋の事情に関して、気を許して話ができる数少ない友人の一人であったかもしれない。二人は双方の自宅を訪れ、よく杯を酌み交わしていたようだ。

福澤は、九州の東側、大分県中津市の出身、大隈は九州の西側、佐賀県佐賀市の出身、両者は父親を早くに亡くし、慈善家の母親に育てられ、蘭学、洋学に魅入られたという共通項がある。また、私心がなく、率直な物言いで、敵を多く作ったという共通点もあったかと思う。

大隈と福澤はそれぞれ、旧い体制が支配した田舎から抜け出し、日本の近代国家の建設や人材の育成に貢献した。九州の東と西から、ほぼ同時期に飛び立った二人はそれぞれ別のルートを通って、最後には、有為な人材を育てるという共通の目標で遭遇したのも歴史の妙である。

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何が大隈を引き上げたのか

ふたたび、大隈の話に戻り、締めくくりたい。

佐賀藩で砲術長をしていた父親を13歳の時に亡くしたことを大隈は人生の一大不幸として自叙伝で記している。家族は、自分が長男で、弟一人、姉が二人いた。

大隈は、また、自分の母親のことを感謝の言葉で綴っている。不遇の人たちの面倒を見るのが何よりも好きなやさしい人だった。学生の頃、友人らが家に遊びに来て放歌高吟しても嫌な顔を見せなかった。そして、幾ばくかの金を工面して、自分の門出を支援してくれたと。

こうした大隈の家庭環境、そして、佐賀藩の教育環境、さらに、世の中に出てからの人との出会い、何が大隈をあそこまでの地位に押し上げたのだろうか、答えは一言では見つけられないかと思う。

大隈は福澤のような思想家ではなく、官僚、政治家、教育者としての実践の人であった。

自叙伝を読む限り、彼の高い志と信念、そして、楽天主義とポジティブ思考、こうした面と、粘り強い交渉スキル、裏表のない人柄が混ざり合い、彼をあれほどの地位にまで押し上げたものと推測するばかりである。

大隈のメッセージ

大隈は晩年、人生125年説を唱えている。意気軒高に、東西文明の調和と世界平和の実現というテーマに心を砕き、最期まで、若い人を叱咤激励することを惜しまなかった。

そして、大隈は過去を振り返り、国事に身を置き多忙を極める中で、悔いとしてあるのは、学問の深奥を極めることができなかったことだと吐露している。

若い人には、学問の奥深さを学び、世界平和に貢献する人となって欲しい、これが、大隈が残した最後のメッセージだったかもしれない。

佐賀の未来のサーガ

サーガとは、英語では、一家一門の年代記という意味だ。イギリスの作家、ジェフリー・アーチャーが得意とする分野で、彼の作品を好きな人はすぐにピンとくるかもしれない。

もし、佐賀の年代記が書かれるとすれば、大隈は、間違いなく傑出した人物として、登場することになるだろう。

では、これから未来の年代記では、どのような新しい賢人が登場するのだろうか。

恐らく、未来の賢人は、何も中央で活躍する人だけでなく、地域のどこかで、地球のどこかしこで、場合によっては、宇宙のどこかで、活躍するような人となるかもしれない。

そして、鍋島直正が、賢人を育てたように、岡田三郎助が、女性画家を育てたように、これからの新しい時代に、どのような新しい教育が生まれてくるのか、興味は尽きぬところである。

佐賀城跡の公園を散歩しながら、色々なことを想像することができた。

新しい佐賀のサーガがいずれ書かれることを楽しみにして、筆を置きたいと思う。

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参考文献:

『大隈重信自叙伝』(2018年 岩波文庫)
『大隈重信演説談話集』(2016年 岩波文庫)

関連サイト:

佐賀城本丸歴史館
https://saga-museum.jp/sagajou/

佐賀県立博物館/美術館
https://saga-museum.jp/museum/

大隈重信記念館
https://www.okuma-museum.jp/



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