郷愁の行方 ふるさとの発見
ノスタルジーの行方
イタリア映画「ニュー・シネマ・パラダイス」(1988)はジュゼッペ・トルナトーレ監督が、第二次世界大戦後のシシリア島の小さな村を舞台にして、自身の少年、青年時代を投影した作品です。監督の映画への深い愛情と共に、初老の映写技師との友情、そして、初恋の人とのすれ違いが描かれています。背景に流れるエンリオ・モリコーネの音楽と共に名画として多くの人の記憶に残っているのではないでしょうか。
この映画は、故郷を離れて都会に住む人たちが抱く郷愁(ノスタルジー)をテーマにして、観客の心を揺さぶり大ヒットにつながりました。
郷愁とは、幼く若い頃に過ごした故郷を懐かしむこと、そこに、哀しさ、愛おしさ、悔しさ、憤りなど、様々な感情が絡み合ったものと考えています。そして、異郷に住む人が再び戻ることのない故郷へと思いを馳せるときに、より強くこうした感情が芽生えるのではと思います。
トルナトーレ監督は数十年ぶりに故郷を訪れた後、自身の郷愁を昇華させて一つの作品に仕上げました。この映画を世に出すことで、監督は自分と故郷との関係に折り合いをつけることができたのではないかと思っています。
もし、実際に自分が長い時を経て故郷を訪れることがあるとすれば、誰もが監督と同じように、様々な思い出や感情がフラッシュバックするのではないでしょうか。
この度、数十年ぶりに故郷の町を訪れました。現在の状況下で人と会うことは控えましたが、いくつかの新しい発見があり、これから故郷と自分を繋げていく良いきっかけとなりました。短い旅で感じたことの一端を紹介させていただければと思います。
コモ湖とは違う、コモ神社のこと
九州の東海岸を走るJR日豊線の中津駅、大分県の北西端にあるこの駅から車で10分ぐらいのところに薦(こも)神社があります。
薦神社はご神体が三角池(御澄池)という名の池そのものとなっているのが特徴です。池の周囲は1㎞足らずで、30分もあればゆっくりと散策できるでしょうか。池は手のひらを広げて指を三本伸ばしたような形をしており、池の端から端は見渡せるほどの空間となっています。
神社の薦の名前はイネ科の植物の真薦(マコモ)がこの池に群生しておりそこから名付けられたとのこと。漢字の名前は覚えづらいので、北イタリアの有名な避暑地、コモ湖を連想してカタカナでコモ神社と表記すると覚えやすいかもしれません、やや持ち上げすぎかもしれませんが。この神社を訪れてきました。
薦神社については、案内によると、以下のような説明がなされています。
「薦神社は、宇佐八幡宮(大分県宇佐市、全国4万社ある八幡宮の総本宮)の祖宮であるとも伝えられており、三角池に自生する「真薦」を刈り取って、池の中の島で乾かし、宇佐八幡宮の御神体である「御枕」にしたといわれています。
社殿は、承和年間(834~848)の草創と伝えられていますが、三角池の築造はこれより古いとされています。当時、大陸の技術を持つ渡来人によって各地の水利不便な台地に多くの溜池が造営されており、三角池もこうした溜池の一つであると考えられています。」
「池は浅く、ハスが密生し、マコモの群生地となっています。御神体でもある三角池では、池・植物・魚などが大切に扱われ、それゆえに貴重なマコモ群落やハンノキ林などが残っています。現在でも、社殿のある一帯は、コジイ=クロキ群集の常緑広葉樹林に覆われ、イチイガシ林、クスノキの巨樹とあわせて境内林をつくっています。大分県の天然記念物に指定されています。」
また、歴史書によれば、養老4年(720)、九州南部に勢力を持つ隼人の反乱に対し、大伴旅人(665-731、後に大宰府長官、万葉歌人)率いる大和朝廷軍が、豊前軍と共に三角池の真薦で造った薦枕を神輿に乗せ鎮圧に向かった、という伝説が残されています。
豊かな生態系とオーラ
子どもの頃、薦神社のすぐ近くの小学校に通っていました。
当時は、真薦のこと、神社の由縁、真薦が取り持つ歴史のことなど何ひとつ知らずに池の周りで遊んでいました。
今度、この池の畔に立って、水草が群生し、池の真ん中で魚が飛び跳ね、鴨が泳ぎ、水鳥が舞い立つ光景を眺めながら、また、足元で紋白蝶のつがいが飛び交うのを見ながら、目の前の豊かな生態系と辺りに漂う神々しさに包まれて大変心地よい一時を過ごしました。
そして、三角池の後景に地元の山、八面山(はちめんざん)を見渡すことができ、子供の頃いつも眺めていたなだらかな山の稜線に懐かしさを覚えました。この光景が、セザンヌにとっての、彼が繰り返し好んで描いた故郷のサント=ヴィクトワール山と重なり、かなり格は落ちますが、自分にとっての原風景ではないかとも思えました。
古代から三角池が水源となり地域の田畑を潤していたこと、人々がこの池に感謝の祈りを捧げていたこと、また、池に棲む植物や魚類、鳥類が大切に保護されていたこと、恐らくこうしたことからこの地に神々しいオーラが漂うようになったのではないかと想像しています。
幼い頃に過ごした神社を久しぶりに訪れることで、今ある自分の感性や好み、指向性の源はここにあったのではないか、ということに気づかされたのは嬉しい発見となりました。
私にとってコモ神社は、決してコモ湖に引けを取る存在ではありません。
白隠さんと池大雅 中津自性寺の縁
白隠禅師(1685-1768)はご存じでしょうか。はじめに少し紹介させていただきます。
白隠は臨済宗中興の祖と称せられる江戸時代中期の禅僧です。
故郷となる静岡県沼津市の松蔭寺で長らく住職を務め、三島市の禅道場、龍澤寺を創建し、多数の弟子たちを育てています。
禅師には「隻手(せきしゅ)の声」という「両手を叩けばパンと音がする、隻手(片手)だとどんな音がするか」という有名な公案があります。(どんな音がすると思われますか?)
また、禅師の「坐禅和讃」は、禅を一般の人向けに分かりやすく説いた歌で、今でも多くのお寺で唱和されています。
そして、禅師は生涯に渡り、達磨や観音、布袋などを題材とした絵画を数多く残しており、これらを民衆教化の材料として生かしました。
近年、白隠禅画は国内外で高く評価されており、ギョロっとした目の達磨像を見たことがある人も少なくないのではないかと思います。
15年ほど前に、白隠禅師の禅道場、三島の龍澤寺で1週間、接心という坐禅修行に参加したことがあります。そのこともあって、今回、禅師が故郷の中津と縁があったことを知り大変嬉しく思い、そのことを紹介させていただきます。
その縁とは、中津にある自性寺というお寺を通しての縁となります。
自性寺は中津藩主、奥平家歴代の菩提寺で、今から300年近く前からある禅寺です。
この自性寺の和尚が白隠禅師に、寺の開祖の絵を依頼したことから両者の縁が始まりました。そして、白隠の弟子、提洲和尚(1720-1780)が 自性寺に住職として赴任することとなり縁が続きます。自性寺は白隠門下の九州における最初の寺となりました。
さらに、提洲和尚が同門下でかねてより交流のあった池大雅とその夫人を中津で迎え入れます。夫妻がこの地をたいそう気に入り自由に絵を描きながら、しばらくの間滞在されたと伝えられています。恐らくこの時、白隠の下で学んだ弟子の間の友情も深まったのではないでしょうか。
現在、寺の書院で大雅の書画と白隠禅師の絵を同時に見ることができるのは、以上のような経緯があったわけです。
ちなみに、池大雅(1723―1776) は、江戸時代中期の画家であり書家で、与謝蕪村とともに日本の文人画の大成者といわれています。大雅作の「釣便」は目にした人も多いのではないかと思います。
知識とプライド
今回、自性寺の書院で白隠の絵と大雅の書をゆっくりと一人で見ることができました。あたかも秘宝を見るかのような心持で作品を堪能することができました。
白隠の画にはいつもながら見事な迫力を感じましたが、初めて見た大雅の書の自由闊達さは新鮮ですぐに好きになりました。
白隠と大雅、そして提洲。自性寺を通しての師弟間のストーリー。その敬意と友情の証としての貴重な作品が今も大切に残されていること。こうしたことを知ることで、今の自分と故郷との新しい繋がりを発見でき、少し誇らしく思えるようになりました。
自分にとってはまた一つ、嬉しい故郷の発見となりました。
筑紫亭 120年の生きられた歴史
最後に、筑紫亭でのお話で締めくくりとしたいと思います。
短い旅のご褒美として、中津でミシュランの星(2018)を持つ料亭、日本料理「筑紫亭」に足を運びました。
中津名物の鱧(はも)が評判のお店で、予約の際に女将から、お昼は割安ですのでどうぞいらしてください、という声に促されて向かいました。結論からいうと、女将のレクチャー付きで、かなりお得な至福のランチとなりました。
筑紫亭は120年の歴史があり、これまで数多くの人が訪れ、こちらの鱧料理を堪能したようです。ゲストの中には海外から来たベルリン・フィルの団員もいて、建物の雰囲気と料理を好まれ、過去にはコンサートも開いたとのことでした。
昔の一時期、九州では「西の博多、東の中津」ともいわれ、中津港の港町として賑わった往時の界隈にこの料亭の建物は位置しています。
女将の話によると、嫁いだ先の家が営むこの料亭という場所がすぐに気に入り、ここが自分の舞台だと直感されて今にあるとのこと。建物や掛け軸、書画も含めて、有形、無形の文化財としての筑紫亭の価値を守り続ける使命に情熱を捧げてこられました。
料亭の入り口には山頭火の石碑があり、室内に入ると、惜しげもなく名品が目に入ります。その佇まいには、この料亭を愛した人たちが作ったオーラのようなものを感じました。
医食同源ということ
そして、出された料理はすべてオーガニックで添加物は一切なし。自然のもの、地のもの、旬のものを生かして丹念に調理されたものをいただきました。鱧を鍋でさらっと湯通ししていただく「鱧のしゃぶしゃぶ」は絶品で、これまでの鱧の印象を覆すものでした。こちらはぜひ、多くの人にご賞味いただきたいと思いました。
お話の中で、女将は医食同源について力を込めて語られていました。
最近では大学で講演をしたり、地方紙にエッセイを載せたりして、食が命を守るためにいかに大切かということを発信しているようです。
そして、中津の自然の豊さについても学ばせていただきました。
女将のレクチャーを聞きながら、あらためて、自分の体の基が作られたのは、この地の海や川、山や田畑からいただいたものだということに気づかされました。
由緒ある料亭の空間に包まれ、故郷の自然の豊かさと人々の労苦と工夫に対し、感謝の気持ちが芽生えてきたのは当然の成り行きでした。何も美味しい鱧の湯通しをいただいたついでに思い付いたわけではありません。
町の未来を作る
豊かな食が基本となり、次世代が未来を作っていくことができる、ようやく女将の考えに世間が追い付いてきている気がします。
筑紫亭は、一料亭という地位を越えて、中津という自然と土地、歴史を伝える生きられた文化財であるということにあらためて思いをいたしました。
ふと、この料亭の小さな空間だけでなく、中津の町全体が筑紫亭のような佇まいになれば素敵なことではないか、と思いました。
食を大切にし、文化や伝統を守る。そして、自然のめぐみに感謝し、先人の功績に学ぶことで、自ずと故郷の未来も切り拓かれていくのではないか、そう考えると、お店を後にした帰り道で心が弾み足どりも軽くなりました。
さて、大分、長くなってしまいましたが、自分と故郷を発見する旅の報告は以上となります。
最後になりますが、今回、触れることのできなかった幼いころの思い出はいつか映画のワンシーンのように、郷愁を混じえて描けることを楽しみにして、筆を置きたいと思います。ありがとうございました。
関連サイト:
おおいた遺産 薦神社
http://oitaisan.com/heritage/薦神社と御澄池/
自性寺
https://www.city-nakatsu.jp/doc/2011100100246/
筑紫亭
https://chikushitei.com
参考文献:
「自性寺の大雅」(1963 菅沼貞三)
「白隠門下と大雅ー自性寺大雅堂の襖貼付書画をめぐって」(2019 出光佐千子)
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