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「ふてほど」(多様性乱用と集団主義、さらに「その画一的命名としてのレッテル」)

最終回の「寛容になりましょう」だけが違う。と感じたんだよねー。
それじゃ、根本的には何も変わらない。Z世代に困る管理職は救われないなぁ。※僕はサラリーマンじゃないし個人だからいいけれど。。。。。

「多様性」も乱用が多いね。表に出てきた「多様性」ではなくって、その人が育った環境や持ち合わせた性質、そして文化圏の影響、もうね、書ききれない様々な背景を受けて育った個々人の「単語に表現できない」スタイルが多様性の根源じゃないのかなぁ。だから「ラベリング」的な意味で「多様性」というキーワードが、メディアで上っ面で現れるたびに、あー、多様性っていいながら「レッテル」「ラベリング」しとるわー。と、あほらしくなる。

そういうものは、どのようなタイミングで、どのようなシチュエーションで使うか?

そんな多様性って連発する用語じゃないっしょ。概念に生きるひとはこれを使って「とりあえず安心したがる」
そいうのは、昔からなんにも変わらない。

そこに対して「寛容」は違うんだよ。多様性と寛容が云われるけれど、さらに言えば「〇〇ハラスメント」
ほどほどにした方がいい。「0」か「1」つまり「Yes」or「No」しかない世界だ。グレーのラチチュードが著しく欠落している。

逆に、昭和に育った僕は「昭和は懐かしいが大嫌いだ」※脚本家はその辺りを十分に理解したり体験したうえでこのドラマを描いたんだと思うけれどね。

「集団主義」「連帯責任」(いい迷惑だ)「チームワーク」「ワンチーム」「地域的セクト主義」(日本バンザイ!的な世界を見ないようにする仕組み)
日本が好きなら、現実をしっかり見ればよい。現代の日本は政治を見ればわかるとおり「泥船」だ。そんなものに期待するのはやめてしまった方がよい。

冒頭に戻るけれど、自分で切り開くのだよ。誰かがやってくれるのは待っててはどうしようもない。
必要な時に、ヘルプを求めればいい。説教なんぞは無用の長物だ。僕らは親の持ち物でもなければ、影響を受けながらも何とか生き延びたって事は精神的に自立したって事だ。

遠慮なく、ヘルプを求めればよいし、余計なアドバイスという説教もいらない。
それは求めている個々人に必要な価値だろうし。逆に求めてくる人にヒントも提示できないようじゃ、大人じゃないって事でもある。自戒を込めて。

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