自己紹介
①プロフィール
はじめまして
都内の2次救急病院で救急外来診療を専属で担うEmergecny physicianです。
医師としては2023年時点で卒後14年目の絶賛中間管理職。
プライベートでは2児の父です。
アラフォーです。
②医師になるまでの道のり
まず、医師になろうと思ったのが高校3年生のころ。中・高とバスケットボールに明け暮れ、高校の部活の引退を機に進路を考えたときに、「人の役に立つ仕事がしたい」と思い立った職業が医師でした。
進学する人がほとんどの公立高校でしたが、過去の卒業生で医学部進学した人は誰もいない、ましてや国公立大学に進む人自体、指で数えるくらいしかいないような学校でした。当時の私の成績からしたら夢物語でした。
当然、現役で合格するわけはなく、浪人生活へと突入しました。
1年目は同じ医学部を目指す人たちと切磋琢磨して勉強に没頭しました。
勉強だけしていればいいなんて、浪人生ってめちゃくちゃ恵まれているなと思いました。
よく一緒にいた医学部受験4人組の中で、私以外の3人は翌年の4月には晴れて医学部入学できましたが、私はというとまた同じ予備校の門をくぐることになりました。。
決して金銭的に余裕があったわけではなく、1浪目の頑張りもあって何とか特待生として授業料免除で通うことができました。ただ、特別講習などは別途費用がかかるため、週3日でバイトをしながら勉強を続けました。
自分でも不思議ですが、受験勉強がいやだと思ったことは一度もなく、誇張なしに浪人時代の2年間は毎日15,16時間くらい勉強していたと思います。
予備校に行っても、医学部受験を目指すのはその地区のトップ高や中高一貫の私学高ばかり。ポテンシャルは高くないし、要領も良くないことは分かっていたので、自分は一歩一歩進むしかいないと言い聞かせていました。
この分野を覚えれば問題が解ける、この問題が解ければ合格に近づく、と、ただそれだけをひたすらに考えていました。この精神力は、間違いなく部活動で養われたものだと思っています。
③座右の銘「ポジティブ・シンキング」の誕生
私の人格は、この浪人時代にほぼ確立したと思っています。
現役時代から数えると通算3年間を受験勉強に費やし、浪人時代はつねに己との闘いでした。私が合格できた2つの要素が
①メンタルの強さ
②ポジティブ・シンキング
でした。
もともとメンタルが強いわけではありません。部活の試合でも、学校で何か発表するにしても、授業中に発言しようとしても、毎回緊張していました。なんでこんなに緊張するのか自分でも分かりませんが、この性質は今でも変わっていません。変えたことはただ一つ、
「自分は緊張するものだ」
と認識して受け入れることでした。試合前、必ず心拍数が上がり、試合前から息が上がる感覚に襲われますが、そこで波に飲まれるのではなく、
「今日もやってきたか。大丈夫。いつものこと。始まれば緊張も忘れる。」
と言い聞かせていました。
予備校の模試でも毎回緊張していたため、この緊張をコントロールすることが試験本番で実力を発揮するためのカギでした。
ポジティブ・シンキングも、重要なマインドでした。
勉強を頑張っているのに模試で成績が伸びない、特に1浪目はE判定ばかりだったのでさすがに挫けそうになりました。挫けながらでも勉強はしなければなりませんでしたが、ある日ふと気づきました。
「挫けながらやる勉強って、意味なくないか?」
模試の結果に気をとられ、勉強に集中できていない自分がいました。
同じ時間を費やしているのに、全く身になっていませんでした。
受験勉強できる時間は無限ではありません。どんなに挫けようが、さぼろうが、試験日はやってきます。そこで合格しなければ、これまでの頑張りが報われません。
だったら、とっとと気持ち切り替えて、ポジティブな感情で勉強した方が絶対にいいよねって思うようにしました。間違えが分かったんだから、復習して、次の模試や本番でできるようにすればいいと思うようにしました。
それでもやっぱり、思うような成果が出なかったときは凹みました。
そういうときは凹むのはその日のうち。翌日には持ち越さないと心に決めていました。
こうやって無駄な陰性感情に貴重な時間を費やすことがなくなりました。
このマインドはもちろん、いまでも持ち続けています。起きてしまったことを無きものにはできないし、対処しなければなりません。反省はしつつ、でも進まなければならないのです。決して、「楽観主義」というわけではありません。
この二つのマインドを軸にして受験勉強を乗り切り、合格することができました。
④救急医を目指すきっかけ
いつでも、どこでも、誰に対しても、医療の手を差し伸べられる医師になりたいと思い救急医を目指すようになりました。きっかけは、大学1年の頃の英語の授業で扱っていたアメリカのドラマ『ER』でした。ドラマのワンシーンがテキストになっており、テーマの回の話をDVDで鑑賞することから授業が始まりました。
これを機にドラマにはまり、自分の思い描く医師像がドラマの中で描かれている救急医になっていきました。
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ただ、学生のころはまだ救急医の認知度は低く、専門性も乏しく、各専門の道に進むのが当たり前という認識の時代でした。(当時から救急もれっきとした専門分野であったはずなのですが。。)
学生実習での定番の質問は
「部活動なにやってるの?」
「何科志望?」
の二つでした。大学時代は学校の部活動には所属せず、高校のバスケ部OBが作ったクラブチームに所属していて学内での先輩との繋がりはほぼ皆無で、志望科は救急だし、可愛がり甲斐のない学生だったと思います。
救急を目指すという話をしても、最初のうちはいいけど、そのうち直ぐに飽きるよ、と、事あるごとにいわれ続けました。
救急医という実態もよく分からず、救急医を目指すことへの気持ちがゆらぎかけていたとき、何か救急について知れるものはないかと本屋に行って書棚を見ていた時に一冊の本に出会いました。
この本には、ある救急医のリアルな姿が描かれていました。
これまで否定されつづけてきた自分の進路を、突き進んでいる人がいました。この本を読んで気持ちが固まりました。自信をもって、「救急医を目指す」と言えるようになりました。
大学5年生の時、大学の先輩がこの医師が働く八戸市立市民病院で救急の後期研修医をされていたこともあり、ご本人に会うべく3日間病院に泊まり込みで実習をしに行きました。
初めてお会いした瞬間は、憧れのスターにあったような感覚で記憶の中の映像がキラキラしていますが、ERの初療室で後期研修医と一緒に中心静脈カテーテルを挿入しているところでした。処置が終わったあとで、気さくに挨拶してくださったことを今でも覚えています。
無事に国家試験も合格し、第一志望の研修病院にマッチし、救急医になりたい気持ちは一度もぶれることなく初期研修医・救急後期研修医をへて専門医になることができました。
⑤noteを始めたきっかけ
思い出話が長くなってしまったが、こっからがこのnoteに関する内容です。
初期研修医は必ず救急をローテートし、ローテートしている科によらず週1回ほどのペースで救急外来診療に携わるため、世の臨床研修病院の救急医たちは常に初期研修医や救急医を専門に目指す専攻医と関わっています。
自分が教わったこと、体験してきたこと、問題解決のためのかつての指導医の思考パターンなど、言語化しにくいことをどうやって伝えていけばよいか、自分の頭の中を整理する目的と、時にブレそうになる自分自身への戒めと、救急外来診療を上達させたいと思っている初期研修医や専攻医の方たちにヒントになるようなものを提供できればと思ったからです。
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ここに記していることは、医学が進歩しても、自分がさらに学年があがり年老いたとしても、変わらないスタンスだと思っています。
変わることがあったとしても、ポジティブな方に変わっていきます。
このnoteでは主に2つのことを書いていきます。
①Caseを元にした思考のトレーニング(妄想力を鍛える)
②指導医としてのスタンス、心構え
①では、実際に経験した症例をベースに、現場での思考のしかた、揺れ動き、その時とるべき行動などを追体験してもらいます。
②では、救急外来全体をマネージメントする上で意識していることや、指導の上で気を付けていることなどを書いています。
自分の思考もさらにブラッシュ・アップしていきたいので、是非コメントなどでのご意見・ご感想をお待ちしております。
⑥ちょっと趣味の話
これまで特段、趣味と呼べるものはありませんでした。
大学時代に、何か楽器ができるようになりたいけど、みんなと同じものやってもなと思い、オカリナに手を出したこともあります。
ジブリの『耳をすませば』が大好きで、オリビア・ニュートン=ジョンの歌う『カントリー・ロード』に魅せられて、オカリナで吹きたいと思って練習しました。何とか吹けるようにはなりましたが、長続きはしませんでした。
知的な遊びを覚えたい思い、大学時代にチェスを始めました。
たまたま1つ上の学年の先輩に、チェスの日本代表の方がいて、大会も見に行ったりしたこともあります。しっかり学んだわけではないですが、ルール本を読んで一通り理解してからは、気が向いたときにネットゲームで対戦しています。レートは1500-1600くらいで変動しています。始めてから15年以上経つかもしれませんが、下手の横好きです。
最近はもっぱら、キャンプです。ずっとやりたいと思っていましたが、なかなか手が出ずにいました。父親としては子どもを自然に連れ出して、火を扱えるくらいにはならないと、という勝手な父親像を描き続けていたわけですが、2022年6月からようやく動き出すことができました。
最初の2回は手ぶらキャンプから始めて、3回目のキャンプで一通りのギアを揃えました。キャンプに関してはInstagramの方にあげています。素人・子連れキャンパーの成長記録として残しています。
最後に
長くなりましたが、最後まで目を通していただきありがとうございます。
頻回更新とはいきませんが、無理ない範囲でやっていければと思います。
よろしくお願いします!
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