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頼まれてもないプロダクトを作る虚無を乗り越える哲学

プロダクトマネージャーはWHYを考える仕事。
Voicyプロダクトマネージャーのエモジマ(@kitajima_snooze)です。

なぜプロダクトが求められて、なんのためにプロダクトは存在するのか?
誰がこの機能を喜んで、この開発を進めることに何の意味があるんだろう?

これらを考え抜いて、プロダクトを作り上げるために旗を振る。
プロダクトマネージャーはそんな役割を担うのですが、時に答えのない問いに思い悩むこともあります。

※この記事は、Voicy PdM Teamのマガジンにまとめられています。気になったらマガジン自体もフォローしてね!


なくてもいいプロダクトを、なぜ作るのか?を考える

ボクらのプロダクトは、ユーザーにどんな体験を提供できるか?どんな時にどんなユーザーが喜んでくれるのか?
プロダクトチームにいると、プロダクト自体について散々話すことになります。

「ボクらのプロダクトは何のために存在しているんだろう?」

こんなことを考える時に、ボクはみんなとのちょっとしたズレを感じる時があります。

みんなは「少なくともこのプロダクトには価値がある」という前提で議論を進めているように感じます。

しかしボク自身には「数多あるアプリのうちの1つが、明日無くなったって誰も困らないんじゃないか?」という考えが根底にあります。
というより「あらゆるモノは本質的には無意味」だと捉えており、ある種のニヒリズム(虚無主義)を抱えています。

神は死んだ

フリードリヒ・ニーチェ

高度経済成長期のように、ただ会社や市場を信じてモノを作っていればいい時代でもない。盲信できるような神様がいるわけではないのです。

ただ、これはネガティブな話ではありません。
「なぜ無意味なモノと思っていて、それでも作ろうと思えるのか?」
を考えることには、ものすごく意味があるのです。

どこまで分解しても「声」には絶対に価値があると思う

我思う故に我あり

ルネ・デカルト

デカルトの登場から、哲学は大転換したと言います。

「存在」について考える時、思考を何度も何度も分解していったあげく「存在について考えている自分だけは、少なくとも存在している」という大前提を作ったことが、近代西洋哲学の基盤になりました。

ボクらのプロダクトに何の意味があるのか?そこに価値が生まれるのか?今野、そこに愛はあるんか?を考えていくにあたり、何度も何度も分解していきます。

するとボクにとっての最小単位は「声」ということになりました。

あらゆるアプリやサービスがコモディティ化していく中、Voicyの存在の本質は「声」であり「少なくとも声自体は価値があるだろう」という所で腹落ちしています。

逆を言えば「声には絶対価値がある」ということさえ信じていれば、ニヒリズムに沈んで投げ出すことはなくなります。

ボクらの背骨を貫くような強大な意味を持ちます。

生まれた意味は、我々が決める

実存は本質に先立つ

ジャン=ポール・サルトル

実存主義を代表する哲学者、ジャン=ポール・サルトルの言葉です。

例えばハサミは「人が紙を切るために存在する」ため、実存よりも本質が先にあります。紙を切る以上でも以下でもない存在。
使用価値や目的の方が先にあって、はじめて存在たらしめられるのです。

しかし人間は違います。
人間は使用価値や目的などないまま生まれて、何も考えることなく気付いたら息をしています。

だからこそ「自分の存在の意味は、自分で定義し表明していく必要がある」というのが実存主義の考え方です。

ボクらのプロダクトはどうでしょう?
プロダクト、開発組織、またはこの会社にボクがいることに、必然性などあるでしょうか?

ボクは創業メンバーではないので、Voicyはボクが気付いた頃には存在していました。
いまやVoicyを作っているメンバーではありますが、ボクが意味を込めて生み落とした訳ではないのです。

この状態をボクの立場から見ると、実存が本質に先立っています。

そして社会に一度出てしまうと、プロダクトの本質というのは「様々な人の眼差し」によって、あっという間に歪んでいきます。
プロダクトの存在する意味は、良くも悪くも流れ流れて変わってしまっていきます。

それを成長とするか?迷走とするか?
改めて、自分たちで定義し表明していく必要があります。

そして、自分たちなりの目的地を決めて進めていく。
これがプロダクトマネージャーの本質なのかもしれません。


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