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ドライブインなみま|小説 中華そば編


魚の鱗が手の甲と腕にあった。それは透明な瘡蓋のようにピタリと皮膚へ貼り付いている。

「手の甲と腕に魚の鱗が付いてますよ。」

レジの前で僕がそう言うと老眼鏡を鼻の先へ乗せた由美子さんが

「え?どこよ?」

と、両腕をコサックダンスみたいにして目を凝らし、まじまじと手の甲や腕を見ているけれど見つけることが出来なかったので、僕は

「ほら、ここと、ここと、ここ。」

と、人差し指で示すと由美子さんは

「ああ、ほんまや。ありがとう。」

と、笑いながら鱗を剥がしていく。それはセロハンテープを剥がすような感じで簡単に皮膚から剥がれ落ちた。すると由美子さんは

「さっきいっちゃんにもらった鯛を捌いたから、その時についたんやね。」

と、鱗を横にあるゴミ箱へ捨てた。それはごく当たり前の行動なのに無性に勿体ないという感情が芽生えた。そのからからに乾燥した鱗が剥がれるのと同時に鳩尾から追憶が迫ってくる。僕の中でまあるい何かが弾け飛ぼうとした瞬間に

「いっちゃんはあれやね、小さい頃から中華そばしか食べんね。」

と、由美子さんは老眼鏡から目を離して目尻に深い皺を寄せて微笑んだ。僕は掴みかけた何かを手放しながら

「うん。ここの中華そばはサイコーに美味しいから。」

そう言うと由美子さんはにこりと笑いながら

「ありがとう。また来てね。」

と、お釣りを手渡してくれた。僕は硬貨を財布へ入れてから

「じゃあ、また来ます。」

と、軽く手を振って自動ドアから外へ出ると潮の匂いがぷーんと鼻を突いた。目の前の海を見ると三角形の白波が立っていて強風が吹き付ける中、僕は財布をポケットへ入れながら軽トラへ乗り込んだ。フロントガラスから空を見上げると、ドライブインなみまの看板の横に植えている椰子の木の葉は風に吹かれて、がさがさと揺れている。


こんな日は漁ができんな。


と、頭の中で親父の声がした。先程、弾け飛ぼうとしたまあるい何かはプツリと音を立てて鮮明になり、僕という器を越境していく。



𓆛𓆜𓆝𓆞𓆟𓆛𓆜𓆝𓆞𓆟𓆛𓆜𓆝𓆞𓆟



「壱也は鱗を剥がすんが好きやな。」

僕が幼い頃に親父の手の甲や腕に貼り付いた鱗を剥がすことが好きだった。働き者の親父の手の甲や腕には漁師らしく沢山の鱗が貼り付いていた。僕は毎日それを一枚一枚丁寧に剥がしてはテーブルへ並べた。すると親父は

「さあ、この魚はなんでしょう?」

と、クイズが始まる。それはいつも忙しく働いている親父との唯一のコミュニケーションだった。僕は鱗をよく観察してから魚の名前を言う。

「これは鯛と鰤と鰹や。」

すると親父はドラムロールを口にして

「ドゥルルルルルルル、ジャン!正解は全部鯛でした!」

と、言いながら鱗を指で摘んで僕のてのひらへ乗せる。そして、その大きいてのひらで僕の頭を柔らかく撫でた。

「これが鯛の鱗かあ。」

僕は頭を撫でられながら透明な瘡蓋のような鱗を蛍光灯の光に透かしている間に父はビールを豪快に飲み干して

「じゃあ、また明日な。」

と、言い残し寝室へ向かった。時間はまだ夕方の六時だけれど、漁師の朝は早いから親父はいつもこの時間に就寝していた。僕はテーブルへ並んだ鱗を全部てのひらへ乗せてよく観察していたら、お袋にそれをゴミ箱へ捨てなさいと促された。しかし、それは僕の中でただの鱗ではなくて親父とのやり取り総てを捨てているようで嫌だったけれど、お袋は

「ご飯食べる時に邪魔やから。」

と、少々面倒そうに言っていた。僕はてのひらに乗っていた鱗をゴミ箱へ入れると、はらはらと舞う桜の花びらのように儚かなく散った。それは季節が変わるときに感じる諸行無常に似ていたことを憶えている。

そして、僕ら家族は親父の休日に必ずドライブインなみまへ通った。子どもながらにそのお店の佇まいが好きだった。外にある大きな椰子の木に、食品サンプルが置いてあるショーケースに、内装が昔のアメリカ映画のようなおしゃれな雰囲気は他のお店に感じたことのない特別な感情を抱いていた。親父と店主の由美子さんは同級生で、いつも僕らが行くと

「あら、たっちゃん家族!いらっしゃい。」

と、笑顔で迎えてくれたあとに必ずこう訊く。

「注文はいつものでいいね?」

と、由美子さんは笑顔で僕らの前へお冷やとおしぼりを置くと、父が

「そうやな、いつもので。」

と、言うと由美子さんは「はいよー。」と、返事をした後に伝票へメニューを書いて厨房へ向かう。そして少ししてから、やってくるのが中華そばだ。黄金色に輝くスープにストレート麺が浮かんでその上には焼豚と青ネギとメンマが乗っている。すごく純度の高いシンプルな中華そばだ。そっとスープを散蓮華で掬い上げてフーフーしたあとに口へ運ぶと円やかな野菜と魚介の風味が口いっぱいに拡がる。親父を見るとスープをじっくりと味わい「旨いなあ。」と呟いて幸せそうだ。そうだ、ここは僕たち家族にとって幸せの場所だった。家族がひとつの糸で繋がっている、そう感じることができる場所だった。あの日までは──

あの日は朝目覚めた時から妙に胸騒ぎがした。人間に第六感があるのならそれが激しく反応しているようだった。家の窓から海を見ると白波が立つほど時化ている。ふいに親父の笑顔が頭へ浮かんだ。僕は階下へ向かうとお袋が目玉焼きを作っていて、その後ろ姿へ

「親父は仕事へ行った?」

と、何気なく訊くとお袋は

「うん、行ってるで。」

と、手元の卵の焼き具合を見ながら言った。僕は親父のことが心配になったけど、そのことは口には出さずに出来上がった朝食にいただきますをしてから食べて、身なりを整え学校へ登校した。授業中も休み時間も親父のことが妙に気になっていたけど、第六感は身体の内側を騒つかせるだけで、どうすることも出来なかった。すると授業を受けていたら、担任の先生が慌てて教室へ入って来て

「前田壱也くん!」

と、僕の名前を呼び、手を招くような仕草をするので廊下へ出ると、担任の先生が小声で

「お父さんが田山総合病院に運ばれたようだから、早く向かいなさい。」

と、言った。僕は「はい。」と言ったきり身体は動かなかった。すると、担任の先生が僕の肩を押して

「外にタクシーを呼んであるから、早く!」

と、言うので我に返ると、荷物をまとめて持ち教室を出て廊下を走り抜けて玄関へ直行した。その間に気付いたことは僕の第六感はどこか腑に落ちた様子で影も形も無くなっていた。上履きから靴へ履き替えて外に出ると校庭の入り口にタクシーが停車していたから、そこまで全力で走ると、僕に気が付いた運転手さんが車のドアを開けてくれた。行き場所を伝えて向かう車中は風のビューッと吹き抜ける音が聞こえていた。病院へ到着するとお袋が緊急処置室前のベンチにいた。僕は息を切らしてそばへ行くと僕に気が付いたお袋は茫然とした様子だった。

「何があったん!?」

と、僕が叫ぶように訊いても、お袋は

「わからへん。わからへんのよ。」

そう言いながら泣き崩れた。僕は近くを通った看護師さんに父の容態を確認すると

「前田達也さんは緊急処置を受けているので、ご家族はここでお待ち下さい。」

と、言われるだけで状況は把握できなかった。僕はお袋の横へ荷物を置いてベンチへ腰掛けたら、先程の看護師さんが僕たちの前へやってきた。胸元の名札をチラッと見ると佐々木と印字されている。佐々木さんは

「前田さんのご家族ですね。こちらへどうぞ。」

と、処置室へ案内してくれた。診察台に仰向けに寝ている父の周りには看護師さんと医師が治療をしていた。難しい専門用語が飛び交う中、僕たちは部屋の隅でその様子を見ていた。よくドラマで見るような状況に困惑していたら、医師が僕たちに

「ご家族の方ですね!?早くこちらに来て名前を呼んであげてください!」

と、叫ぶように言った。僕たちは恐る恐る父ちゃんの横へ移動してお袋が小さい声で「お父さん?」と、呼んだ。すると医師は

「もっと大きい声で、まだそっちにイッたらダメだって!帰って来てって呼んであげてください!」

と、まるで怒っているように叫んだ。僕は親父の動かない身体に向かって

「親父!親父!帰って来て!」

と、叫んだ。親父はどこか遠くへ行こうとしていることが分かったから、僕は喉が潰れてもいいから、そこまで届くように叫んだ。すると、それを見たお袋も叫ぶように親父を呼んだ。どれくらいそうしていたのか分からないけど、いくら親父を呼んでもその身体はピクリとも動かなかった。そうしたら、医師が

「皆さん離れて!早く!」

と、親父の周りにいる僕たちや看護師さんに向かって言うで、僕はお袋の手を引いて後ろへ下がった。すると、医師は機械を手に取りそれを父の胸へ当てた。バチンッと音が鳴ると同時に父の身体がバネのように跳ねた。そうしたら、医師は心電図と親父を交互に見てもう一度機械を親父へ当てる。それでも心電図はピーッと鳴りながら暗い画面へ一定の緑色の線を描き続ける。医師がまた「名前を呼んで!」と言うので、僕たちは親父の近くで叫び続けた。「お父さん!」、「親父!」と、何回も何回も繰り返し叫んだ。その間も聞こえてくる心電図の叫び声。すると、医師は僕たちと時計を見ながら

「──最善を尽くしましたが、14時36分、ご臨終です。」

機械音と人の足音が響く部屋の中で医師はポツリと言葉を落とすように呟いた。僕たちは親父の横でその言葉を聞きながら返事もせずにただ茫然と立ち尽くした。それから先程の佐々木さんに連れられて処置室を出る頃の記憶は曖昧に途切れている。どうやって自分たちと親父が家へ帰って来たのかも憶えていないけど、いつの間にか家の部屋の壁は葬儀の白と黒の幕が囲い、祭壇が組まれている。そして親父の遺影がその上に置かれていた。僕はまだ気持ちが追いつかない。ただ心の中では「親父!」と、絶叫し続けている。誰かが「お悔やみ申し上げます。」と言う。誰かが「まだ若いのに。」と言う。誰かが「いっちゃんを残して逝くなんて。」と言う。それは僕の耳を通過して畳の上へ転がり落ちる。どの言葉も心に響かないし残らない。どうでもよかった。僕は布団で眠っている親父を見た。その手は胸の上で組まれてどこか厳かで親父っぽくないなと思う。そして近くへ座るとその顔を──その首を──その腕を──

「あ!」

と、つい口から飛び出た。親父の腕と手の甲には魚の鱗が貼り付いていた。僕は透明な瘡蓋のようなそれをそっと剥がして、蛍光灯の白い光に透かした。これは何の魚だろうか、そう思いながら親父の顔を見た。やっぱり穏やかに眠っているようだった。すると、僕の頬に熱い液体が通過した。それは次から次へと落下して顎から零れ落ちると、僕の中で親父との思い出の欠片が溢れてくる。

船に乗って仕事をする真剣な眼差し。

軽トラを運転する横顔。

大きくて温かいてのひら。

僕が鱗を剥がした時の嬉しそうな笑顔。

笑顔、笑顔、笑顔──。

「親父、なあ?親父。」

僕はそう呟いても、返事もしない。ただ穏やかにそこにいる。すると、お袋が僕の横にやって来ると

「お父さん、穏やかな顔してるわ。ねえ?」

そう言うなり声を上げて泣き崩れた。僕は蹲るお袋の背中をそっと摩った。

それから葬儀を行い、親父は荼毘に付して家へ帰って来た。ポツンと音が聞こえそうなほどの静寂にただ小さな憤りが心の中で木霊する。

なんで親父が死ななあかんねん。

それは徐々に膨れ上がり僕を支配した。そこからは坂を転がり落ちるようだった。高校一年生の時に悪い連中と連むようになって、代名詞は僕から俺に変わるし、髪の毛は金髪になるし、煙草は吸うし、学校は退学になるし、喧嘩はするし、盗んだバイクで走り出すし、窓ガラスを割るし、お袋は毎日誰かに頭を下げて、そして泣いていた。それでも僕は荒んだ生活を続けた。何も楽しくないし、何も怖くなかった。ただやり場のない憤りを全身で発散させていた。

ある日に喧嘩に負けてボロボロになりながら海岸沿いを歩いていた。

「うん?いっちゃん?いっちゃんとちゃう!?」

その声が前方から聞こえてきた。霞む目でそちらを睨むように見るとドライブインなみまの由美子さんだった。すると、僕と分かった由美子さんは小走りで駆け寄り

「いっちゃんその顔どないしたん!?とりあえず店に入り!」

そう言って僕の背中を押した。僕はどうなろうがどうでも良かったので、それを振り払うことはせずに由美子さんに連れられて店へ入った。

「ここに座って。ちょっと待っててな。」

由美子さんはそう言うと救急箱を持ってきて傷の処置をしてくれた。それが終わると僕は無言で立ち上がろうとしたら

「いっちゃん!ちょっと待って!五分だけ時間ちょうだい。」

そう言って厨房へ姿を消した。そのまま立ち去ろうと思っているのに、身体が言う事をきかなかった。すると少しして由美子さんがやって来て僕の前に中華そばをドンッと置いた。

「いっちゃん、お腹減ってるやろ?とりあえず、これ食べ。」

そう言って僕の前に腰掛けた。すると僕の中であの頃の──あの頃の親父の声や姿や仕草がふと浮かぶ。ここは幸せだった家族の思い出が溢れていた。僕は徐に散蓮華を手に取り黄金色のスープを飲んだ。野菜と魚介の風味が口いっぱいに拡がる。僕は夢中になって食べた。そして、スープを飲み干すと憤りでいっぱいになった心の隅で優しい幸せを感じた。すると由美子さんは、うんうん、と頷きながら

「いっちゃん、人はな、生きている限りはどんなに悲しくても辛くてもお腹は減るねん。それは生きている証拠やねんで。」

と、呟いたあとにお冷やを一口飲んでから

「いっちゃんのからだには、たっちゃんの血が流れてるんよ。いっちゃんの中でたっちゃんは生きてんねん。」

僕はてのひらを見た。そしてこの中を走り抜ける血には親父の血が流れていると感じて、そして脈々とつながる生を思った。

親父は僕の中で生きている。

僕の中で残響するその言葉。スーッと熱い涙が流れ落ちた。やるせない憤りも寂しさも辛さもその涙が吸収しているように感じた。

「いっちゃん、家に帰ろう。お母ちゃんも、たっちゃんも待ってるはずやで。」

由美子さんはそう言うと車で家まで送ってくれた。久しぶりに帰る家はどこか温かい光が灯っている。僕は玄関から入るとお袋が一瞬驚いた顔をしたけど

「おかえり。」

と、優しく呟いた。僕は

「ただいま。」

と、呟いて家の中へ入った。



𓆛𓆜𓆝𓆞𓆟𓆛𓆜𓆝𓆞𓆟𓆛𓆜𓆝𓆞𓆟



僕は溢れた追憶を大切にしまう。そうしたら軽トラの車窓の隙間から潮風がビューッと入ってきた。


こんな日は漁ができんな。


と、また頭の中で親父の声がした。ドライブインなみまの看板の横に植えている椰子の木の葉は風に吹かれて、がさがさと揺れている。僕はゆっくりと軽トラを発進させて、お袋が待つ家へと向かった。












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