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真夜中に 高山なおみの神戸だより



暗い空気の狭間を縫うように、ゆっくりと大きく肺を膨らませては小さく萎ませるを繰り返した。そうすると全身へ酸素の供給が澱みなく行われそうな気がする。これは私の勝手な思い込みで医学的根拠があるのかは解らないけれど、深呼吸を繰り返すと、いつの間にか冷え切った手足の末端がジンジンと音を鳴らせて温かくなるから、不思議だ。人体は丁寧に大切に扱うと必ず返答してくれるんだなと思う。ぽかぽかした身体は、どうやら覚醒したらしく、いつまで経っても睡眠がやってこないので、一層のこと起きてしまおうと、夜の底にストンと腰掛けた。こういうときは、本か映画かドラマを観ようと闇に順応した眼でテレビの電源を点けて、レコーダーの中を彷徨うけれど、「コレや!」と、決めることができなった。だから目を瞑り、リモコンの↓ボタンを押しながら安定のドラムロールを口にする。「ドゥルルルルルルル。(結構リアル)ジャンッ!」と言いながら、目を開けると、『高山なおみの神戸だより 海の見える小さな台所から 六度目の冬』だった。





「あ、コレ好き。」

そう暗闇へポツリと零して、目を凝らす。

高山なおみさんのご紹介をすると、料理家、文筆家としてご活躍されていて、紡がれる文章は私の心にある襞を擽るような、柔らかい木漏れ日に触れるような、そんなあたたかい読後感が残る。私は高山さんのブログ『ふくう食堂/日々ごはん』やエッセイを拝読しているけれど、その文章に触れると、心の澱がスーッと流れて、子どもの頃に置き去りにした、煌めきとか瞬きとか揺らぎとか、刹那と永遠が銀杏の葉のように、くるくると回りながら落下していく感覚に陥るのだ。





そして高山さんの日常が映像として流れていく。単身で神戸へやってきて六度目の冬を迎える高山さんの台所事情や食べ物に対する思いや身近に感じることを時間をかけて映像で綴る。

高山さんは二年前に亡くなられたお母様の祭壇へお水をお供えすることから、一日がスタートする。その祭壇には真ん中に白い花の絵が飾られ、その周りを優しく囲むように団栗などの木の実、赤や茶に色付いた落ち葉、形の変わった石ころが並んでいて、とても印象的だ。それはまるで亡くなられた方を愛しむような気配が潜んでいて、しんしんと時間は経過していくけれど、そこには普遍的なものがゆっくりと深呼吸しているように見えた。

それから映像は変わり、高山さんは朝食をいただく。そのときに、はちみつに付いていた紹介文を朗読した。


私たちは神戸市北区で西洋ミツバチを飼っています。甘く味わい深いはちみつをしぼる時、身近な野山にこんなにも甘みがあることと、それらを集める蜜蜂たちの勤勉さに驚きと感謝です。


それを読み終わると、高山さんはこう仰った。


自分たちがやっていることが何にも書いていないんですよね。すごく苦労は多いでしょうし、そんなことじゃなくて、みつばちたちのこととか、あと植物とか、地面とか、そういうものを尊敬しているっていうか、すごく素直な文章で、こういうの書けないですよ。普通。こういうのを書けるようになりたいな。なんかね、すごくいいなあっと思って。


高山さんは言葉を焦らず丁寧に選びながら話す。その言葉の中には、書いた人に対する最大の敬意と少量の嫉妬が混じっていた。そして、物事をとらえるとき、大人になるつれて知らない間に世間体が絡まるように付属されることがままあるけれど、高山さんは、物事をフラットな目線で見る方なんだなあと思った。私の世間体に凝り固まった目線をゆっくりと解き見ると、高山さんのその土地の、人に、文化に、歴史に敬意を払う心と、無垢な感受性が溢れてきた。

「あ、忘れてた。」

と、私は思った。忙しさに感けて忘れ去っていた感覚が蘇ってくる。

キラキラとひかる川の水面。

あたたかい土。

清々しい風。

ゆらゆら揺れる鮮やかな葉っぱ。

食べ物をいただくことへの感動と感謝。

「丁寧な暮らし。」と、いう言葉が今まで理解できなかったけれど、それは自分が感じ取る行為を大切にすることから、はじまるのかもしれない。そして、それは深呼吸に似ているなと感じる。ゆっくりと大きく肺を膨らませては小さく萎ませるを繰り返すことで、身体は緩やかに喜びに満ちて反応してくれる。その刹那の積み重ねが心や身体にじんわりと沁みて、自分という人格を形成していくのだろう。私も慌てず焦らずにゆっくりと時間を人を大切にしていきたいと思った。

録画を観終わったあとに、残るやわらかく温かい余韻を抱いて、深く深く呼吸をすると意識は夜更の闇に溶けていった。







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