見出し画像

カレーに揺さぶられて頬っぺたを叩かれた日。


空咳を夕陽の合間に落として車を降りた。そして車に鍵をかけると同時に、あ、と思った。私はマスクをずらしてよく利く鼻をすんすんと鳴らしてまた、あ、と思った。カレーの匂いは平凡な窓辺の隙間から漏れた円い幸せのようで、私の心身は遠いところまで安堵した。それはからからに乾いた空気を寡黙に染め上げ、確かに私の体の隅々まで行き渡り37度2分の熱を保ちながらずんずんと巡る。この世に確かなことなど微塵もないのに、沈黙に揺れるその匂いは確かに私を生かしていると感じた。

その匂いは家へ近付くとより密度を増して漂っていた。いや、ちがう。漂うという柔和な感触よりも強烈に征服するという方が正しい。このカレーの匂いはクミンというスパイスの匂いだ。

昔、植物園へ行ったときに温室内のジャングルみたいな通りを抜けると、カレーの匂いがした。それは前進するたびに密度を増して嗅覚がずぶずぶに麻痺した。そのときの状況を喩えるならば、洋服という社会性のある媒体で自己表現をするヤマンバギャルに鼻っ面を殴られたような暴力性があった。

同行した友人が「なんかカレーがすごくない?」と吐露すると、植物園の職員の方がこの香りはクミンから発せられるものだと説明してくれた。クミンすげーな、と思いながらも私の胃袋はあからさまにカレーを欲した。何十種類ものスパイスを駆使した店で食べるカレーではなく、市販のルーを使った平凡なカレーが恋しくなった。私はじわーっと滲む空腹を感じながら、どの角度から見てもカレーには見えない土から生えた緑色のクミンを見て、ほほおおん、と見識の深いようなフリをして職員の方の説明を聞いた。その説明は脳みそのどこを探しても見当たらないのは、その強烈な匂いのせいで言葉が希釈されたからだろう。そしてその後にカレーを食べたのかもいまとなっては憶えてはいない。

エコーみたいにぼやけた記憶の手触りを確かめながら玄関のドアを開けると、ねこが「にゅあおん。」と出迎えてくれて、冬とカレーの匂いが転がる廊下を連れ添い歩き、私は洗面所で手を洗った。清潔になった手でねこをやわらかくなでた。ふわふわの冷たい毛並みは、私が帰宅した気配を感じてあたたかい場所から空気がギュッと縮む廊下へ出て、待っていたからだろう。そう思うと、いとおしさが熱の塊となり、ねこの喉のごろごろという音と共鳴して体の芯を突き抜けた。私は「ふうさん。」とねこの名前を呼ぶとねこは私を見ながら「にゃ。」と短く返事した。私はその浅いやり取りで深く安堵した。安堵とは、緊張から緩和することで得られるものかもしれない。それはきつく縛ったリボンを解くときみたいに、小さな喜びとなる。

ふたりでふくふくしながら台所へ行くと、母がカレー皿にご飯を盛っていた。

「あんた、自分で入れるやろ?」

母は、炊飯器の蓋を閉めながらそう言うので私は「うん。」と簡素に返事をして皿へご飯をこれでもかと盛った。雪を被った富士山みたいに立派なご飯にカレーをたっぷりかけてテーブルへ置いた。そして私たちは、いただきます、と合掌した。ふうふう、はふはふしながら食べるカレーは、かなしいほどに美味しかった。私は生きている時間を肯定するように無心で食べた。すると母が

「あんたの食欲は衰え知らずやねえ。」

と、小さく驚いた風な声で言うので、私は

「そうでもない。年相応に胸やけとか胃もたれするし。」

と言った。実際に強かな食欲も年々細く長くなりつつある。食うが祝いみたいにがっつくこともなくなったし。いまは最初のひと口目に感じる、美味しい!という感覚を維持したまま食事を終えることが稀になった。どうしても途中で胸やけしたり胃もたれしたりするようになった。それも年齢を重ねることにより起こる体の生理現象なのだろうけど、なんだかかなしい。しかしカレーはその暴力的な匂いで半分眠りかけている私の食欲を刺激してくれる。

おい!そこの食欲!まだ寝るな!寝たら死ぬぞ!

と、カレーに揺さぶられて頬っぺたを叩かれているような気さえする。寝るな!私の食欲!そう思いながらカレーを勢いよく平らげた。膨れた腹にやさしく手を当てたあとに刈り取ったいのちに感謝をして神妙に、ごちそうさま、と合掌した。

そして満たされたあたたかい夜を過ごして、寝る前に台所へ漂う微量のカレーの匂いを吸い込んで二階へ上がり布団へ入るとすぐに眠りに落ちた。

闇夜に溶けた夢は、私の体内を巡った。体内では興りと滅びが繰り返されていた。いまこの瞬間も。生まれる細胞と死んでいく細胞が私を緻密に形作っていることを思った。目には見えないレベルで繰り返される営みに力強さと儚さを感じて、なぜか涙した。夢の中で泣いているのに、実際にこめかみを伝う熱い涙の感触で覚醒した。こめかみを手の甲で拭うと濡れていた。

時計を見ると朝の6時だったので布団から出て階下へ向かった。そして台所のストーブであたたかく緩む空気を吸い込んで空咳をひとつ落とすと、次に吸い込んだ空気からは、もうカレーの匂いはしなかった。





空間をカレーは染めるどこまでも
そのうち消える儚さを知る

短歌







この記事が参加している募集

今日の短歌

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?