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ドライブインなみま|小説 カレーライス編


夜をひっかく雨の群れは春雷が連れて来た。ゴロゴロ言うてるわ、と思ったら盛大に降り始めて暗い地面をより暗く濡らす。すると、自然と「あ。」と声が漏れた。この雨は桜流しだと気がつくと家の桜を見上げた。夜に白く映える花弁もこの雨にもぎ取られることだろう。

家の軒下で雨を眺めた。眺めると言っても雨は夜に紛れ姿を隠して、地面へ墜落した雨音だけがぴちぴちと耳へ届いた。それでも今は上を向いていたかった。「泣くのは厭や。」とひとりごちて煙草を吸った。そして、体からはみ出した感傷を嗤いながら煙草を水の入った灰皿へ落とした。ジュッと絶命した煙草は水に浮かんで、それが遺体のように見えた。私は肺へ残った煙を吐き出して
「しょーもな。」
と、何の脈絡もなくつぶやいた言葉なのに、薄っぺらい哀しみは否応なしに胸の奥へドシャドシャと堆積した。


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弟の聡は幼い頃から「しょーもな。」とよく言った。愛犬のタローが脱走したときも、斉藤先生が学校を辞めたときも、両親が私たちを捨てたときも、祖父母が死んだときも、遠くの誰かへ投げかけるように「しょーもな。」とつぶやいた。聡のことを知らない人が聞いたら、ひどい、と思うかもしれないけれど、聡は聡なりに喪失へ対しての防御の言葉だった。

私たちは私が中学三年生、聡が小学六年生のときに祖父母の元へ預けられた。「預ける」という言い方はとても聞こえが良くて、本当のところは捨てられたのだ。借金で首が回らなくなった両親は祖父母を頼り、私たちを捨てた。実際にあの頃から現在に至るまで、両親から連絡はなく生存確認すらできない状態だけれど。まあ、共に暮らしていたころの記憶はとても悲惨で思い出したくもないからちょうどよかった。

祖父母は私たちを可愛がってくれた。月に2回は地元にある『ドライブインなみま』という食事処へ行った。店の外には大きな椰子の木がしゃらしゃらと海風に揺れて、それがよそ者の私たちを「いらっしゃい。」と出迎えてくれているような気がした。店の中は今で言う昭和レトロな雰囲気で客で賑わっていた。すると、店主さんが元気に出迎えてくれた。

「いらっしゃい!宮田さんのお孫さんなん!?まあ、まあ、ゆっくりしてってな。」

祖父母と店主さんの会話が終わると「祖父にあの人が店主さん?」と訊くと、祖父は「そうそう。由美子さんて言う人でな、この店を切り盛りしてんねん。」と教えてくれた。

私と聡は初めて行ったときには何を注文して良いのか判らなかった。まず両親と食事へ出掛けることもなかったので、とりあえずふたりでお冷をすべて飲み干した。すると、祖父が

「わしはあれや、いつものカレーライスにするわ。」

と、言うので、私たちも同じ物を注文した。

注文を終えると、大きな窓から見える海に見惚れた。それは一枚の絵画のようであり、私の掠れた心を治癒してくれるような気がした。聡もジーッと海を眺めていたから、私と同じようなことを思っていたのかもしれない。

「お待たせいたしました。カレーライスです。」

そう言いながら由美子さんと店員さんはカレーライスをそれぞれの前へそっと配膳した。ぷーんとその場を征服するカレーライスの匂いと温度に一気に食欲が湧く。すると、由美子さんが私と聡に向かって

「海きれいやろう?おばちゃんもな、ここの海が好きやねん。なんていうか、どーんと広くて大きくてな、なんでも包み込んでくれる気いがするねん。」

そう言って微笑んだ。私も聡も一緒に微笑むと体の芯が味わったことのない優しい気持ちになった。

「じゃあ、ごゆっくりと。」

由美子さんはそう言いながら伝票をテーブルへ置いて厨房へ姿を消した。すると、祖父が「いただきます。」と合掌したので私たちも合掌してスプーンを持った。聡はカレーライスをグチャッと混ぜて口へ運ぶ。聡は

「なにこれ!うまっ!うますぎる!」

そう言いながらスプーンまで食べてしまう勢いで食事をした。私もいただくと、祖母が作るカレーライスよりもスパイシーで旨味がギュッと詰まっている味がした。上品に食べたかったけれど、食欲がそれを赦さなかった。私も聡と一緒にカレーライスに夢中になった。小さく溶けた野菜と肉と白いご飯と赤い福神漬け。そのハーモニーは私たちの心をグッと掴んだ。そして、誰よりも早く食べ終わった聡はお冷を飲んだ後に「サイコー。」とつぶやいた。その姿は大人の階段をひとつ登ったように勇ましくて、それを見ていると自然と笑顔になれた。


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雨は次第に強くなる。煙草をもう一本吸い終わるころには視界が雨でいっぱいになっていた。すると、ザーザーと地面を打つ雨音に紛れて「姉ちゃん。」と聴こえた気がした。私は周囲をぐるりと見たけれど、聡の姿はどこにもなかった。そして、私の体の中であの日の聡の声が反復する。

「姉ちゃん、俺、ステージ4のがんなんやって。余命半年。」

聡は爪を切りながらそう告げた。私は栗の皮を剥ぎながら「そんな趣味の悪い冗談はやめて。」と注意すると、聡は

「ほんとやねんけど。俺の命は28歳の春に尽きるねん。」

そう言って爪をパチンと切った。私は体を聡へ向けて「ほんまなん?」と言うと聡は

「そう、ほんま。だから今日で仕事辞めたし。今週末から旅行へ行こうと思ってさ。死ぬ前の贅沢。」

と、ニコリと笑った。私はその言葉を咀嚼できなくて、ただ胸の奥がギュッと痛んだ。

「治療はできんの?私にできることやったらなんでもするから、治そう。」

私がそう言うと、聡は小さなため息を吐いて

「もう治療のしようがないねんて。若いから進行が速いし。俺は落ち込んでないよ。人はいつか死ぬしな。けど、姉ちゃんがひとりぼっちになるのが心配やねん。」

そう言って爪を切り終えると、新聞紙を丸めてゴミ箱へ放り込んだ。そして、手を洗い、言葉を失くした私の代わりに栗の皮を剥き始めた。沈黙の中に冷蔵庫のブーンという音が響く。

聡が死ぬ?

私の中で浮かぶ言葉は意味をなくしてぶら下がっているだけだ。ただ、今泣くのは厭や、と思った。私は立ち上がるとお米を研いだ。ジャッジャッとリズミカルに音を立てて研ぐと、少しだけ硬くなった気持ちが解ける気がした。

「あれなん?今日は栗ご飯なん?」

後ろで聡がつぶやくので私は「うん。栗ご飯に、栗と豚肉の甘煮に、秋刀魚の塩焼きに、お味噌汁。」

と、お経のようにメニューをつぶやいた。すると、聡は「ヒャッホーイ!サイコー。」とつぶやいて、笑った。

それから聡は体が動くうちに旅行をしたり、家でいるときは家事をしてくれた。私は聡の死を受け入れることができなかった。聡は元気そのものに見えたけれど、その体内ではがんが少しずつ聡の体力を奪っていると思うと堪らなかった。そして、聡はみるみるうちに痩せてしまった。

「姉ちゃん、俺、明日から入院するわ。体がしんどいねん。」

聡は翌日に入院した。私はできるだけ見舞いへ行き、子どものころのしょーもない話をした。

それは寒さが和らいだ三月末のある日だった。

「姉ちゃん、俺、なみまのカレーライスが食べたい。」

声は小さいが切実にそうつぶやく聡はすでに何も食べることができなくなっていた。けれど、私は「わかった。」と言い残してドライブインなみまへ向かいカレーライスをテイクアウトした。そして、病室へ戻ると聡は頼りなく顔を緩めた。私はその姿に泣きそうになったけれど、泣くのは厭や、と心の中でつぶやいて聡の横でカレーライスの入った器の蓋を開けた。すると、カレーライスの匂いは部屋いっぱいに広がり、その匂いを嗅いだ聡は

「あ、カレーライス。」

と、小さく囁いた。私はスプーンで聡の唇に少しだけカレーのルーを付けたら、聡はそれを舐めたあと、ふふ、と笑顔になった。多分笑っている。すでに表情筋は動いていないけれど、聡は笑っていた。

「サイコー。」

囁くようにつぶやいた。そして、聡は

「俺ってしょーもな。姉ちゃんごめんな。」

そう言い残して眠りに就いた。私はその姿を眺めながら

「そんなん言うたら、私の方がしょーもな。」

と、声を出した。私は、咽頭辺りに熱を持った哀しい塊が詰まったような気がした。すると、ポロポロと眼から涙が零れた。涙は止めどなく流れ続けた。そうなると泣くことが仕事みたいになり、永遠に涙が零れ続けた。

「泣くなんて、しょーもな。」

眠っていたはずの聡の瞼が開いて私を見ると笑った。聡は掠れる声でそう囁くとその眼から涙が零れた。私はその姿を見ていると、聡に心配かけたらあかん、と思い、「あはは。」と笑ったあとに鼻声で

「ほんまやな。泣くなんて、しょーもな。」

そう言ってまた「あはは。」と笑った。

聡はその週末に静かに息を引き取った。

聡は、葬式はせんでええ、と言っていたけれど、聡の同級生や、職場の人や、近所の人や、なみまの由美子さんが弔いに来てくれた。みんな、早すぎる死を悼んでいた。すると、由美子さんがそっと私の肩に手を置いて

「京子ちゃん、なんも食べてないやろ?これ、あとで食べてな。」

とビニール袋に何か入っていた。私はそれを受け取ると、由美子さんは

「遺されたもんは淋しいし辛いけど、生きなあかんで。またいつでもなみまへおいで。」

と、言って帰って行った。私はその後ろ姿へ一礼して、みんなが帰ったあとにビニール袋からそれを取り出し蓋を開けると、カレーライスだった。私はスプーンを取り、それを必死で食べた。生きることは食べること、そう思うと掠れていた心に火が灯るような温かさを感じた。そして、聡の遺影を見るとはにかんで笑っていて今にも「しょーもな。」と、聴こえて来そうな気がした。私は少し笑顔になって、それを食べ終えた。

すると、夜をひっかく雨の群れは春雷が連れて来た。私は煙草を持って軒下へ向かった。













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