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ドライブインなみま|小説 焼きめし編


夜が漣にゆれる。月光が照らす海面は、てらてらとたゆたい、そのほかは波音しか聞こえない柔らかい空間へ、ぽつりと落とされた言葉に、意識がハッとした。

「わたし、河野さんに結婚しようって言われてん。蘭は、どう思う?」

ザザーッと波音が寄せては引いてを繰り返している。私は、聞こえていたのに「なんて?」と、訊き返してしまった。すると、お母ちゃんは「だ、か、ら──」と、先ほどと同じ言葉を繰り返した。私は

「え!?えっと──おめでとう。」

と、咄嗟に応えた。その瞬間に波音は聞こえなくなり、私の頭の中へ河野さんの恥ずかしさに滲んだ笑顔が、淡い色彩で浮かんだ。

そうか。河野さんは、お母ちゃんと結婚するんや。

私は、その頭の中の淡い映像をぷつりとオフにして、それ以上の感情をシャットアウトした。そうしなければ──

「あ!私、携帯忘れてきた!先に帰るわ!」

お母ちゃんにそう告げて、遊歩道を走った。その背後から

「蘭!待って!私も帰るわ!」

と、お母ちゃんの声が聞こえたけれど、私は聞こえていないフリをして、そのまま走った。走って走って走って、私の中で現れた笑顔の河野さんをかき消そうとした。そして、息が切れた頃合いに足を止めて背後を振り返ると、夜の気配だけを感じた。私は、膝に手を突き、息を整えたあとに夜空を見上げて、この気持ちを夜で塗り潰すように深呼吸を繰り返した。すると、熱い塊が眼からこぼれ落ちた。ポロポロと、ポロポロと、静かに頬を伝い滴り落ちる。私は、それを手の甲で拭いながら家とは逆方向の遊歩道をゆっくりと歩いた。


☽☽☽


お母ちゃんは、男を見る目がないというか、男運がないというか、とにかく、出会い頭に恋をしては、その相手はクズ男ばかりだった。

私が小学校へ入学したときに出会った借金男、私が中学校へ入学したときに出会った浮気男、私が高校へ入学したときに出会った博打男。お母ちゃんは、私が学校へ入学するたびクズ男に恋をしては、結婚しようか迷っていた。結局、クズ男たちと結婚することはなく、お母ちゃんの前から姿をくらませて自然消滅するのがオチだったけれど。側から見たていた私は、厄介な恋を終わらせてホッと胸を撫で下ろした。しかし、お母ちゃんは

「なんでえええええ、おらんなったんやああああ。ううううう。」

と、嗚咽しながら終焉を迎えた恋に抗おうとするのがいつものパターンだ。そんな恋多きお母ちゃんを見て育つと、恋は私にとって非常に面倒で厄介な存在になので、いままで恋をしたことはない。

そして、恋で痛い目に合うお母ちゃんなのに、私が大学へ進学が決まったあとに、また恋をした。今度は、どんなクズ男を連れてくるか、とても心配だった。

ある日、その人と会うことになった。私たちは、ドライブインなみまの駐車場で落ち合う予定だった。お母ちゃんの運転でドライブインなみまへ向かい駐車場へ到着すると、大きな椰子の木が海風に靡いて、爽やかにしゃらしゃらと鳴いていた。私は、安らいだ音から眼を外すと、すこし離れたところで、新聞を読みながら煙草を吸っている男性がいた。その男性は、煙草を灰皿へ入れることなくポイ捨てして、ジリジリと靴底で踏みつけた。その姿が陰気臭いエルヴィス・プレスリーみたいな動きで、直感的に「あ、この人が今回のクズ男やな。」と、思った。

コンコン。

突然、運転席の窓ガラスを優しくノックする音が聞こえた。そちらを見ると、男性が体を屈めて窓から覗き込んでいる。

「すこし早く着きすぎたよ。」

その男性は笑顔でつぶやいた。すると、母はドアを開けて車を降り

「ほんまやね。でもそろそろ開店すると思うよ。」

と、その男性につぶやいた。私の頭はすこしパニックになった。心の中では

え!?あの陰気臭いエルヴィス・プレスリーみたいなおじさんじゃないの?え?舘ひろしみたいなこの人!?うそおおおおお!?

と、絶叫した。すると、お母ちゃんは、運転席の窓からひょっこりと顔を出し私を見てから

「あんた、どうしたん?目が点になってるで。まるで鳩が豆鉄砲食らったみたいになってる。どうしたん?」

と、私の心の中の絶叫を知ってから知らずか、そうつぶやいて「うふふ。」と笑った。そして、私は、慌てて車を降りてお母ちゃんと舘ひろしみたいな男性の前へ移動して

「こんにちは。はじめまして。娘の田岡蘭です。」

と、挨拶をすると

「あ、こんにちは。コウノタダフミと申します。今日は、来てくださってありがとうございます。素敵な娘さんだね。さ、行きましょうか。」

と、とても紳士的に挨拶してくれた。その対応に恐縮していたら、ドライブインなみまが開店した様子だったので、三人で並んで歩いて行った。すると、陰気臭いエルヴィス・プレスリーが一番乗りで入店して、その後を追うように私たちは、ゆっくりと入店した。

「いらっしゃいませー!」

レジの向こう側から店主の由美子さんの元気な声が聞こえた。由美子さんは、私たちを見て

「こんにちは!今日は、天気も良くていい日やね。」

と、言いながら席へ案内してくださった。私たちは、導かれるように海の見える窓際の席へ案内されて、それぞれが着席した。すると、由美子さんの背後から、かわいらしい店員さんがお冷とおしぼりを持って来てくださったので、お礼を伝えて熱々のおしぼりで手を拭いた。

「あっつ!」

つい口から出た言葉にコウノさんは

「それは、まだ熱いよ。気をつけてね。」

と、笑顔でつぶやいた。私は、なんだか恥ずかしくなってしまい「はい。」とだけつぶやき、手を拭いてから窓の外を見た。海は歪みながら美しくゆれている。すると、由美子さんは「注文は後でねえ。ごゆっくり。」と伝えて席を離れた。そのあとにお母ちゃんが

「私は、焼きめしにする。ここの焼きめしは、めっちゃ美味しいねんで。」

と、河野さんに伝えると「じゃあ、僕も同じものを。」と、とても丁寧に話した。そして、焼きめしを三つ注文したあとに、私は、恥ずかしさで、おしぼりでおむすびを作っていたら、コウノさんが穏やかな声音でご自分のことを話しはじめた。

コウノさんは河野忠文という漢字らしい。そして、東京都出身の56歳で、去年に会社の支所があるこの街へやって来て、そして、母と出会ったことを簡潔に説明した。私は、小娘なのに河野さんのとても紳士的な態度に、嬉しいやら、恥ずかしいやら、感情がごちゃまぜになった。けれど、河野さんの横で座っているお母ちゃんは、とても嬉しそうな顔をしていた。その姿を見て私は内心ホッとした反面、ちくりと針で心を刺されたような痛みを感じた。

すると、湯気を纏った焼きめしがテーブルへ運ばれて、かわいらしい店員さんが「ごゆっくり。」とつぶやいて席を離れた。

まあるく盛られた焼きめしからは、香ばしいなんとも言えない幸せの匂いがした。私たちは、いただきます、をしてレンゲを手に取ると河野さんが勢いよくひと口食べた。河野さんは味を確かめるように咀嚼をしたあと

「これはうまい!なんだか懐かしい味がするね。むかし、お袋が作ってくれた焼きめしの味がするよ。」

と、つぶやくと、私は、なんだか嬉しくなった。それは、このドライブインなみまが褒められたような気がしたから。私は、子どもの頃から通っているドライブインなみまを、とても好きで自慢に思っているからだろう。そして、私とお母ちゃんも、はふはふ言いながら焼きめしを食べた。

こんな温かい気持ちになるのは、はじめてだった。優しく灯る火のように、心と体はふわっと明るく、笑顔になった。

すると、その私たちの横をドカドカと歩く陰気臭いエルヴィス・プレスリーは、不機嫌そうに会計をして、すぐさま外に出ると煙草を吸いはじめた。それを窓越しに見ていたら、いままでのクズ男たちが、走馬灯になって脳みそを駆け巡る。私は

クズ男たち、サヨナラ。

と、心の中でつぶやいて、黙々と焼きめしを食べた。

そして、食べ終わったあと、河野さんが徐に

「蘭ちゃん、これ、蘭ちゃんが気に入ってくれるかわからないけど──はい、プレゼント。」

と、私に本を手渡してくれた。表紙を見ると『雪国』だった。

とても難しい本だなあ。

と、思ったけれど、私は笑顔でお礼を伝えた。すると、河野さんは、恥ずかしさが滲んだ笑顔を見せた。その瞬間に、私の血潮が熱を放ち爆ぜたように感じて、躰の感覚がぼやけるような、不思議な感覚になった。嬉しさよりも恥ずかしさが優ったような、鼓動が高鳴り眩暈がするような、言葉にできない気持ち。

それは、恋やで。

俯瞰した思考がそう告げた。私は

うそおおおお!あかんやろ!それ!

と、絶叫したいけれど、それをグッと抑制して、表面的にはなんともない素振りをした。おしぼりでおむすびを作ったり、『雪国』の冒頭を何度も読んだりしたけれど、高鳴る鼓動に血潮は轟々と音を鳴らして全身を駆け巡った。

それから、どうやって河野さんと別れか、思い出せない。けれど、その日から、何をするにも河野さんが頭の中を占領して、好きになってはいけない、とその気持ちに枷をはめるけれど、勝手に駆け出した気持ちを制御することはできなかった。河野さんに会うたびに胸は高鳴り、その裏では哀しみで苦しくなるのに、河野さんの

恥ずかしさが滲んだ笑顔を

遠景を見る眼差しを

豪快に焼きめしを食べる姿を

穏やかな声音を

大きな手を

心へ焼き付けるように、濃やかになぞった。


☽☽☽


それからニヶ月が経った今夜、お母ちゃんから河野さんにプロポーズされたことを告げられた。

世界のすべてが夜になったように、優しく色をなくして沈んでいくような気がした。モノクロームの世界でポロポロと、頬を伝う熱い塊は止まることを忘れた様子で、流れ落ち続けた。すると、向かいから自転車とすれ違ったと思ったら、背後でギギーッとブレイキ音がその場を占領した。私は、ふと振り向くと、ドライブインなみまの、あのかわいい店員さんだった。

「あれ?あなたは、蘭ちゃんですか?どうしましたか?大丈夫ですか?」

私の名前を覚えてくれたことに驚いたけれど、その優しさが滲んだ声音に安心した。私は、浅い呼吸で「大丈夫です。」と声を出した。そして、店員さんに促されるように遊歩道の階段へ腰をかけると、熱い塊は落ち着きを見せた。店員さんは、私の横へ座り、そっとハンカチを手渡してくださった。私は、お礼を伝えてから、その熱い塊が作った道筋をハンカチで拭いた。すこしすると、消えていた波音が優しく耳へ届いた。どれくらいそうしていただろうか。店員さんは黙って私のそばにいてくださった。

「──あの、私、失恋したんです。初恋だったから戸惑ってしまって。でも、おかげさまで落ち着いてきました。ありがとうございます。」

私は、店員さんに伝えると

「そうでしたか。とても辛いですね。辛いときは深く大きく息をしてください。ほら、自らの心と書いて息と言います。息を整えることは、自分の心を整えることです。大丈夫です。できた傷は、時間が解決してくれます。大丈夫。」

と、店員さんは優しく仰った。

夜が漣にゆれる。月光が照らす海面は、てらてらとたゆたい、そのほかは波音しか聞こえない柔らかい空間。私たちは、簡単な自己紹介をして、互いの話をした。店員さんは、中国から日本へ来た林 雨桐さん(リン・ユートン)で、いまはドライブインなみまで忙しいながらも、楽しく働いていると話してくださった。そして、リンさんは

「わたし、恋はしたことないから、蘭ちゃんが羨ましいです。その人を想いながら、胸の奥が苦しくなったり、嬉しくなったり、一喜一憂してみたいです。蘭ちゃん、その人を好きになってよかった、と思いますか?」

と、問いかけた。私は「うーん。」と悩みながら言葉を探した。

「いまはまだ、失恋した傷の痛さでヒリヒリしてるけれど、うーん。そうですね、ひとつ想うことは、その人に幸せになってもらいたいです。ただ、それだけです。」

私は、そう応えてから海を見た。淡い月光が海面と私たちを照らし、ザザーッと打ち寄せる波音が心地よかった。

「リンさん、今日はありがとうございます。リンさんが話を聞いてくださったから、だいぶ落ち着きました。」

私は、心を込めてお礼を伝えると、リンさんは「よかった。よかった。」と、笑顔を見せてくれた。ひとりでは失恋の渦に呑み込まれて呼吸もできなかったけれど、リンさんの温かい心に救われた。時計の針の音が聞こえないゆったりとした時間の中で、くだらない話をしたり、無言になったり、その瞬間を濃やかに味わった。

すると「ワンワンッ!」と、犬の鳴き声が聞こえたのでそちらを見ると、妙齢の女性が「こんばんは。」と挨拶してくださった。私たちも会釈しながら挨拶をした。すると、それが号令になったように

「さあ!そろそろ帰りましょうか。」

と、リンさんは軽やかに言うと、立ち上がりグッと背伸びをしたので、私も真似をした。そして、私たちは、連絡先を交換して「またね。」と手を振って別れた。

海岸沿いからすぐの家の前では、お母ちゃんが立って、そして、私の存在に気がついて「おーい!」と手を振っている。私も「おーい!」と返事して、家まで走った。そして、息が切れたまま

「お母ちゃん、結婚おめでとう!」

と、伝えると、お母ちゃんは緊張した結び目がパッと解けるような笑顔になって

「うん、ありがとう。」

と、あたたかい声音でつぶやいた。

















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