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私に汚い言葉を投げつけて

 朝の光が差し込むと栞は霧が晴れるようにして目を覚ました。瞼を開くと同時に額に上げていたディスプレイグラスがすっと降りてくる。気温や天気、一日のスケジュールなどが視界の端に表示される。大きなあくびをひとつして身を起こすと同時に寝室のドア付近に男が一人現れた。 
 男は50代後半で薄くなった髪を後ろに撫で付け、黒縁のメガネにランニングに柄物パンツという実にだらしない格好をしていた。
「朝じゃボケ。さっさと起きんかい。飯はどうするのや」
 最初の言葉がこれではせっかくの朝が台無しだ。ディスプレイのストレスゲージがぐぐっと伸び始める。栞は舌打ちしながら答える。
「いつもの」
「いつものでいいんなら、いちいち確認さすなボケ。こっちは忙しいんや」
 コンチ、栞はバーチャルコンシェルジェを略してそう読んでいる、はそう言って姿を消した。
 顔を洗って居間に行くとトーストと目玉焼き、そして湯気のたったコーヒーが用意されていた。コンシェルジェの言葉は汚いが、行動は正確でそつがない。そのギャップがまた忌々しい。コーヒーに口をつけるとしょっぱかった。カップの味覚操作を塩に変えてあった。
「ちょっと、何よこれ」
 キッチンから「がはは」と笑い声が聞こえてから味覚操作が砂糖に変わった。
 朝食をとりながらニュースを見る。いつもの忌々しい朝の風景。
「今日の予定は?」
「厚生省老人保護プログラムの運行監視結果の判定結果確認の確認、989年後の2月第1週から2週にかけての天気予測についての見解の確認、茨城県立美術館展示番号33番の展示確認、それから……って、昨日とおなじじゃ。なんで毎日同じこと言わせるんねん。おどれの頭ん中には糠味噌でも入っとるんか、ボケ」
 またストレスゲージがひとつ上がる。
 あらゆる事が自動化されている現代では人間がやる仕事はほとんどない。こうなるともう何のために生きているのかわからないが、栞はなるべくそういった疑問は持たないようにしていた。
「そういえば投資の件はどうなってる?」
「脳みそ増やす投資か?」
 またストレスゲージが上がる。
「NISAの方」
「ああ、それかいない。それなら……」
 コンチの報告に被って連絡が入る。それを知らせるために視界を蝿がぶんぶんと飛び回りストレスゲージが上がった。
 蝿を叩き潰すと画面が開いて伸行が笑顔を見せた。と思ったら画面が消えた。えっと思っているとまた画面が開き、そして消え、また開いた。そんなことを数回繰り返す。ストレスだ。
「何なのよ。いい加減要件を言いなさいよ」
「悪い悪い。今日は約束の日だったろ。だから連絡したんだけど」
「ああ、そうだった。完全に忘れてた。ごめん」
 伸行の顔が一瞬曇る。だがすぐに気を取り直して続けた。
「ほら、結構ご無沙汰だし、そろそろ愛を確かめ合いたいと思って」
 愛? なんだっけそれ。いまいち愛の定義を思い出せない。コンチに聞けばすぐに口汚い言葉を添えて教えてくれるだろうが、今はちょっと避けたい。
「会うの? まだ着替えてもいないんだけど」
「着替えなんて画像でなんとでもなるし、そもそも服なんて必要ない。セックスがしたいんだ」
 伸行が俯き気味に言う。頬が赤くなっているのがわかる。それで愛の定義を思い出した。仕事は数秒で終わるだろうし、後回しでもいい話だ。久々に愛を確かめ合うのもいいだろう。
「わかったわ。じゃあ始める?」
 そう言って人差し指を立てて右手を前に伸ばした。
 伸行が嬉しそうに同じ仕草をする。二人の人差し指の先が画面上で触れ合った。同時に指先から電気が流れたかのようにぴりっとした痛みが伝わってきた。その痛みは指先から腕を通じて頸を通り脳天を突き抜けていく。相手から伝わるエネルギーが体の芯を熱し身体全体が熱くなる。
 やがて耳元で囁く声が聞こえてきた。その声は次第に大きく明瞭になっていく。
「バカ、アホ、間抜け。お前のようなノータリンは見たことがない」
 伸行の発する罵詈雑言が延髄を揺らす。
「いつも腑抜けた面しやがって。像にでも踏み潰されたのか? だいたいお前は何の能力もないカカシ野郎だ。生きている事自体無駄以外の何ものでもない。さっさと死んでしまえ」
 栞はカッと頬が熱くなった。負けじと言い返す。
「あんたこそ何よそのドブネズミみたいな姿は。回線を通じて匂いが伝わってきそう。吐き気がする。生まれた時に両親が生ゴミに出さなかったのが不思議なくらい」
 伸行が息を呑む。
「なんだと。お前のようなやつはブルドーザーにでも踏み潰されてミンチにされるがいい。その後よろこんで蝿が群がってくるだろうよ。お前が死んだらみんなでパーティを開いて盛大に祝ってやる」
「ふざけないで。あんたなんて尻から出てくるものと区別がつかないわ。たまにトイレでまちがって話しかけるくらいよ」
 二人はお互いに考えつく限りの悪口を唾を飛ばして罵り合った。額に青筋が立ち顔は紅潮している。互いの言葉はそれぞれの心を抉り、感情の血が飛び散った。これでもかと言うほど叩きのめされ、叩きのめし、息を吐くのも苦しくなったころ、ストレスゲージがレッドゾーンを振り切った。
「ああっ」
 栞は腕を下ろしてぐったりと椅子にもたれ掛かった。頭の芯が痺れて何も言う気にならない。伸行もまた魂が抜けた表情をしていた。
「どうだった?」
 伸行の言葉に栞は笑みで答えた。
「ふふふ。最低だったわ」
 天井でピロピロとチャイムが鳴った。同時に栞の中のマイナスエネルギーが吸い取られてゆき心が軽くなった。吸い取られたマイナスエネルギーは契約しているストレスバンクに貯められる。溜まったマイナスエネルギーは政府推奨のストレスNISAに自動振替となり投資に回される。もう伸行との関係は3年にもなる。以来ずっとこうして貯めてきたマイナスエネルギーは相当な量になっているはずだ。伸行と付き合うようになってマイナスエネルギー貯蓄は着実に増えている。愛のお陰というやつだ。
 十分にマイナスエネルギーが溜まったら、プラスエネルギーに変換して自身の生活品質向上に使用できる。栞は情事の後のふわふわした感覚のまま、コンチに尋ねた。
「ねえ、そろそろいいんじゃないかしら」
 コンチは空中にさっと残高一覧を表示した。
「ふむふむ。アホのくせしてよく頑張っとるやないか。せやな、そろそろディメンジョンアップの申請出そか」
 やった。変換後のプラスエネルギーが大きければ生活するディメンジョンを上げることができる。ディメンジョンアップは天国への階段を登るに等しい。生活の向上はもちろん、ストレス変換率も随分とよくなる。ゆくゆくはディメンジョンヘブンに住むのが栞の夢だった。
「よっしゃ。申請出したで。アホには勿体無いはなしやな」
 夢の生活が近づいたことに、栞は満足感にくるまれたまままどろみに落ちていった。

 栞のまどろみを破ったのは緊急ニュース速報だった。けたたましいアラーム音が響くと壁一面に切迫した表情の中年男性が映し出された。防衛大臣である。
「ディメンジョン3防衛省はついさっき、ディメンジョン4からのストレス攻撃にさらされたことを国民のみなさんに報告いたします。
 ディメンジョン4は我々ディメンジョン3の専用回線を乗っ取り、不正なストレスデータを大量に流し込むことで、ストレスサーバの負荷上昇を狙った攻撃を仕掛けています。我々のストレスサーバは簡単なことでクラッシュすることはありませんが、能力を全て防御に回すため、みなさんは一時的に回線から切り離されます。各省庁に接続できないことが予想されますので……」
 ここまで話したところで新情報でも入ったのか、防衛大臣は耳に片手を当ててなんども頷いている。そして直後に驚きの表情になった。
「なんとかならんのか」
 秘匿回線の向こうの相手に尋ねるが相手の反応が気に入らなかったのだろう。防衛大臣は大きな声で怒鳴った。
「それをなんとかするのが貴様の仕事だろう」
 防衛大臣はそのやりとりが全て放映されてしまっていることに今更気がついたようだがもう遅い。何かまずい事態になったことは誰でもわかった。防衛大臣は平静を装って、問題はないので国民は静かに事態の収集を待つように、といった旨のアナウンスを繰り返していたが、その映像事態がひどいノイズとにかき消されてしまった。
「コンチ。どうなっているのか教えて」
「それがあかん。さっきからストレス省にもストレスバンクにもつながらん。どないなっとんのやボケが」
 コンチは何か情報が得られないかといくつかのニュースサイトを表示させた。
 するとそのうちの一つがストレス省の建物の前に群がる群衆の映像を映し出した。画面の一番手前にはレポーターがいてその様子を熱くレポートしていた。不安になった人々が群衆となってストレス省を取り囲んでいるのだ。
 だがよく見ると群衆の中にはプラカードを掲げて何かを訴えている人も少なからず混じっている。
「何あれ?」
「ディメンジョン4や5の連中やろ。いくらディメンジョン分けたところで住んでる土地は一緒やからなあ。やつらは前から設定格差を訴えとった。今回の事件もそのうっぷんが溜まった結果やろな。アホ臭いなあ」
 唐突にストレス省の最上階の窓が弾け飛んで煙が吹き出した。何かが爆発したようだ。レポーターがしきりに爆発、爆発と叫んでいた。
「大変なことになりました。最上階にはストレスサーバがあると聞いています。もしストレスサーバが壊れたとなると一体どうなるのでしょうか」
「ねえ。私の貯蓄はどうなるの?」
「知らんがな。消えたんちゃう?」
「冗談じゃないわ」
 ストレスゲージが一気に跳ね上がる。天井でマイナスエネルギーを吸い取る音が響く。だがそれでも一向に気分は上向かない。後から後からストレスが湧いてきた。
「たった今、防衛省から緊急防衛システム作動の発表がありました。防衛省はこの卑劣なテロの対抗策として緊急防衛システムを作動させました。緊急防衛システムとは一体何なのでしょうか」
 レポーターが叫ぶと同時にストレス省のビル全体が白く眩く輝き始めた。
「一体何が起こっているのか!」
 白い光はどんどんと強くなり群衆を包み、遂にはレポーターをも包み込み全てが真っ白になって何も見えなくなった。
 栞もまたその輝く映像を見ていられなくなり、目を瞑り両手で光を遮った。
 何分間そうしていたのか、気がつけば光は無くなっていた。
「何が起きたの? どうなったのかしら」
「おもろいことになったみたいやで」
「おもろい?」
 相変わらずストレス省の映像が映っている。だが、ついさっきまで現場をレポートしていたレポーターの代わりに、そこには黄金の仏像が立っていた。
「さっきの光は何だったのでしょうか」
 仏像が口を開いた。
「あれ? なんだこの姿は」
 声はさきほどのレポーターのままだ。仏像ではなく黄金の仏姿のレポーターだった。そしてストレス省前に群がっていた群衆もまたみな黄金の仏姿になっていた。街を埋め尽くす黄金の仏。なんとも豪華で有難い光景だ。
 唐突に緊急ニュース速報画面が開いた。さきほどまで防衛大臣だった黄金の仏が静かに語り出した。
「防衛省はたった今緊急防衛システムを作動させました。緊急防衛システムは蓄積された全国民のストレス財をプラス変換した後、全国民に均等分配し一切の格差をなくすシステムです。ですので全国民はみな何もかもが同じになります。みなさん、もう何も心配することはありません。合掌」
 そう言って防衛大臣は合掌し速報は切れた。
 栞はそこで初めて自分もまた黄金の仏になっていることに気がついた。コンチも同じだ。だが驚きはしなかったし、不満もなかった。設定は均一になってしまったのだ。もうストレスは何もない。
 栞は洗面所に行って自分の姿をよく見た。細面で切長の目。見ようによっては美しい。ただ、もうちょっとふくよかでもいいのにと思った。

    終

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