一人になりたいヘッドフォン
「したんだ、整形」
勉強するときにはいつも使っている近所のファストフード店の2階で、衝撃的な言葉を聞いてしまった。僕はいま大げさなかたちのヘッドフォンを両耳に装着しているけれど、実際、音楽を聴いていたりはしない。耳が圧迫される感覚が妙に落ち着いて、勉強に集中できるから着けている。今年の入試こそは失敗できないから気合の入れ方がちがう。
ちょうど、解けない数学の問題に行き当たってしまい思考が途切れていた瞬間だった。ヘッドフォンの隙間から、整形という言葉がぬるりと滑り込んできた。すげえな、ほんとにいるんだ、整形なんてする一般人が、なんて思いながら、僕は好奇心に打ち勝つことができずにそっと後ろを盗み見る。
自分よりも何歳か上くらいにみえる年恰好の女のひとふたり。
仲が良いのかそうでもないのか分からないくらいの距離感で、スツールに腰掛けている後ろ姿がみえる。
どっちだろ。整形したの。
瞼がどうとか鼻がどうとか聞こえてはくるけれど、肝心の顔が見えないのでその実体をうかがい知ることはできそうになかった。早々に諦めて首を前にもどす。ふたたび難解な問題と取っ組み合う気力もわかず、シャーペンを投げ出して水滴の浮いたカップを手に取った。
ほんとに、今年こそは受かんないとな。
第一志望の国立に落ちて、絶対受かるだろうと高をくくっていた滑り止めの私立にも落ちた。受験のために日々勉強に時間を投下していたあの熱量とくらべて、結果が出るときの呆気なさは心にぽかりと穴を空ける。
落ちた。俺、落ちた。
落ちたということは春から大学には通えないということで、代わりに行くのは予備校だということ。また、戻るのか、あそこに。しばらく絶望感で水も飲めなかった。
「カラオケいこ、カラオケ」
件のふたり組が席を立ち、片づけもそこそこに階段を下りていった。カラオケか。しばらく行ってないな、と思いながら残ったウーロン茶を一息に吸い込む。
このまま5分休憩だ、と半ば無理やり決めて鞄の中からスマートフォンを引っ張り出すと、同級生だった根本祥子からラインが入っていた。
『浪人中の梶谷くん今どこ?』
彼女とは別に在学中に仲が良かったわけでもないし今も滅多に会わない。ただ、卒業式の日、「そのヘッドフォンも見納めかと思うと名残惜しいからライン教えろ」というよくわからない要求をされ求められるがままに教えた。それ以来、月1くらいでこういう突拍子もない連絡が来たり来なかったりする。
なんなんだ、こいつは。
お互いにクラス内ヒエラルキーの最下層組だったので、相手は女子であるけれども遠慮は要らないと最初から決めてかかっていた。大して話したこともないくせにこの急な馴れ馴れしさはなんだ。だから友達いないんだぞ、と自分のことは楽々と棚に上げて思いたい放題だ。
『勉強中です』
『さすが浪人』
『うるさいなお前もだろ』
『私も勉強してた』
『さすが浪人』
『うざ』
そして唐突にこんなやり取りは途絶える。次はひと月後か、その先か、僕は予測を立てることさえしない。お互いに、会おうとも言わない。きっと友達や恋人が出来ても報告さえしない。僕たちがそうなるという未来もぜったいに有り得ない。
だけどこんなやり取りが連綿と続いていく予感だけはしている。
『ねえ』
あれ。珍しい。追撃がきた。
『あのヘッドフォンまだしてるの』
してるよ。
これがないと勉強ができないから。
音や声を遮断したいから。
何が僕を傷つけるのか、僕自身がわかっていないから。
これは自衛だ。僕が僕をころさないための。
『してる。あげないよ』
『要らん』
『そう』
圧倒的に、僕は一人になりたい。
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