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普通にしていれば男と女は激減する話 ~昭和の価値観も捨てたもんじゃない気がする~

男と女が普通の歴史の流れを歩めば、いつか絶滅というか激減していくよなと気づいた話を整理しておきます。







男と女の基本機構


能力主義、結果重視、プライド、自分にできることを見つける、理性


過程重視、感情情緒、協力、集団の和重視


男は協力してマンモスを狩る。その時代の名残から、自主的に協力して狩ることができる行動気質(遺伝子的性質)を持つ個体が生き残ることになり、遺伝子はそう変化していないので、その行動気質で今も動いている。一方で、女は集落村落で、他の女たちと仲良く集団で子育てとか家事育児?(結果重視ではない作業)を分担協力する時代の名残から、感情情緒的に、相手と仲良く和を大事にする個体が生き残っていることになる。遺伝子はそう変化していないので、その行動気質で今も動いている。





男だけのサバイバル、女だけのサバイバル

見出しの企画の通りの海外テレビ番組が過去にあった。上で書いた基本機構の通り、男のサバイバルは皆で仕事を協力して、マンモスを狩るかの如く、自主的な協力でチームワークをみせて生存に成功した。一方で、女チームは、生き残るために必要だということすら、自分にとっての気持ちよさ(感情情緒)を優先したり、みんなの和を乱すことを恐れてしなかった。結果として生存できない水準になった。男だけと女だけで明暗が分かれた事になる。

私がここで言いたいのは、女が劣っているとか、女に任せたらダメだとかそういう安直な結論ではない。基本機構の通りで、遺伝子的にみたら、そういう女の方が生存(遺伝子の引継ぎ出産育児)に適していたんだから、遺伝子の引継ぎ担当の人に、肉体酷使分野をさせたらそりゃ相性が悪いというそれだけである。

言い換えるならば、男は仕事作業に向いているし、女は出産育児を他の女と協力してやることに向いているようにできている。それだけだ。もっとかみ砕けば、男は働き者だ。女は怠け者(動きたがらない)で情緒的だ。しかし、それが母体の安静安全とか出産の安定とか、他の雌との育児の協力に向いているわけで、それが生存戦略にはプラスに働く面もあるとそれだけなのだ。(個体差があるので、一概に言えないが、全体をならせばそういう傾向という話である。)





男と女のパワーバランス

男と女を比べて、女の能力が劣っているとは思わない。精査すれば明確な差はあるのかもしれないが、実態実務の上では大差や隔たりはない(個人差レベルだ)と思う。しかし、上述の通り、基本機構ゆえに、女は全力を出せない、出そうとしない、出さないことを良しとする動きを備えている。だから、基本的に女性のパフォーマンスの方が、男性よりも低くなりやすいのが自然状態のデフォルトである。学業のような個人技で、かつ、危険や過度のストレスのない脳内労働ならば、基本機構に反しないので、学校生活では、男性も女性もわりかし同じ成績なのはそういうことだ。

基本機構に則った自然状態での作業仕事において、結果や能力だけでざっくり評価するならば、男 > 女 の図式になる。男や社会からすれば、女が得で怠けているように見える。しかし、その能力結果差を”補てん”するのが出産育児だと言える。言い換えるならば、働きアリと女王アリの関係のようなもので、女は大変な作業や仕事はしなくてもいいよ、それより大事な仕事があるし、そのあなただけの大変な仕事をやってくれてありがとう!!ということで、男と女のパワーバランスは保たれているといってもいい。男は仕事で、女は出産なのだ。

女は子供を産み、育てる道具や装置だ!!と言うつもりは全くないが、自然状態ではそれが自然で、そのように行動するからこそ、男と女によって構成される社会の均衡は保たれていると思う。






現代社会に至っての個の尊重と心の尊重

自然状態に従った、沿った価値観の世界や社会ならば、その通りの理屈で世界は回り、男と女のパワーバランスは均衡し安定し繁栄する。しかし、その安定はいつか崩れ去る。文明が発展し、社会が肥大化して個人と社会集団の繋がりが希薄化すると共に、人間の期待という作用が、どんどん心の充実に傾いていき、そのパワーバランスが崩れていくからである。


兵役で考えた方がわかりやすいかもしれない。兵役をすれば、体は強くなり男として認められるような+の側面もあるかもしれない。しかし、そこには、集団や社会の維持のために駆り出されるという側面もある。必要なことだが、純粋に自分の為だけではないのだ。この構図は出産も同様だ。個と社会が密接な時ならば、誰も彼も社会のためにそれらの行動を良しとする価値観が根付いていることだろう。他人事ではなく自分事だからとも言える。しかし、社会が肥大化しすぎて個と社会の繋がりが希薄化すれば、それは誰かがやればいい。自分がしなくてもいいことになってしまう。まぁ、人間は誰しもそんなもんだ。面倒を避けたがるのだ。

男は俺は仕事をしているから!やるべきことはちゃんとやっているから!という理屈で兵役から逃げ回ろうとする(個の興味関心や満足を優先する。)。女は、その大変で避けたい事(出産育児)を、男と同じように、私もしっかり男と同じように仕事をしているんだから!と男の理屈のように回避しようとしたり。あるいは、出産育児が大変すぎる!と文句を言って、もっと楽にならないとできない!とだれかを責める。

全員が全員そうというわけではなく、集団や全体で見た時、社会とのつながりが希薄化すると、なまじ理性(思考)があるせいで、個を最大限優先する流れが一定数生じるということを言いたいのである。さて、人間には自己合理化という厄介な理性も備わっていて、酸っぱい葡萄の寓話のように、自分にとって都合の悪いことを、さもありなんと自己正当化する機構を備えている。そして、理屈と生薬はなんにでもくっつくの名言の通りで、それらしい言説はなんでも生成されてしまう。

言い換えるならば、やりたくない、手に入らないことを、本当にこれがないからそれができないんだ!!という前向きの説明説得ではなく。それらしい説明で理屈をこねて、やりたくないできない自分を仕方ないんだよ~、しょうがないよ~と欺瞞する。欺瞞に必要な様々な主義主張の言説や理論体系を、好き勝手自分勝手に引用して、正当化しようとするのである。自由主義とかフェミニズムとか、多様性とか。なんでも使って今の自分を正当化するのだ。

上の記事でも書いたが、結局のところ社会は成熟化すると、自分の心(主観的価値観)を一番大事にする事。そして、個を尊重をすることに到達してしまうということだ。原本は読んでいないが、”人生は虚構である”と説明した哲学者の本の意味がようやく真に理解できた気がする。主観的価値=物語=大事にするテーマを各自が好き勝手に選び、それを信じぬいて生きるのが現代人ということだ。そこでは、社会のためとか出産育児は軽視されていくし、それが当たり前のながれなのだ。






イジメという基本機構

人間は集団化して、社会化して、みんなで協力して生きることでその生存率をあげる生存戦略を選んだ。しかしその反面、その”集団””社会”というものにも振り回されることにもなるのだが……。さて、集団を維持し秩序づけるためには2つの要因を必要とする。価値観や信念体系の共有か、能力や状況やらの集団内の同質性である。

子供の為に公園を作ろう!各家庭は寄付して!という話があるとして、子供は社会の宝だという価値観が浸透していればだれも反対はせず、その集団内の秩序や方向性はすんなりまとまる。あるいは、子供がいる家庭が多ければ、うちの子供のためにも公園は欲しいかなとなる。集団内にいる人たちが似ていれば、話がまとまりやすいのだ。しかし、2つの要因がどちらもない場合、その誰彼は、公園なんていらないよ、寄付なんてしないよという行動をとる。腐ったミカンではないが、あの人が寄付しないなら、俺だって寄付しなくていいじゃんしたくないとどんどん広まってしまう恐れがある。その対策として集団内の秩序維持のために、イジメの基本機構が人間には備わっているのだ。

言い換えるならば、集団社会の秩序を乱すやつは、イジメることで、学校にくる気を失くさせるとか、村八分とか、集団から外にはじき出すことで、その集団の秩序を維持しようとするということだ。

小学校の音楽大会や運動会なんて意味あるの?勉強するところでしょ?他のクラスと競ってなんになるの?自分の成長の為の場所でしょ?練習なんて真面目にやってらんないよみたいな、個人主義的な考えの人程、集団主義には馴染めないし。音痴とか運動音痴とか、著しくその能力が低い場合には(逆に高すぎる場合でも)、周りの足をひっぱることになり、同じく、イジメの対象になりやすい。集団の秩序を乱すからである。これがイジメの原理であり、集団として生き残るためにしてしまう基本機構である。






3割の壁

さて、なんでイジメの話をしたかというと、出産育児をしない個体含め、そういう社会集団に馴染まなすぎる個体、秩序を乱す個体は、本来そうして間引きというか駆逐されることで、秩序維持がされてきた(その多様性が進化発展の原動力でもあるのだが)ということである。

しかし、どこかの学者の研究によると、3割の壁というものがあるらしい。集団内でその価値観や行動が3割を超してしまうと、もはやマイノリティとしてイジメで駆逐することができなくなり、そういうものだよね。そういう人もいるよねと認めざるを得なくなる。その価値観が浸透して根付いてしまうということだ。男性の育児休暇しかり、自分はオタクである発言が許容されたり、なんにでも当てはまる。

出産育児(あるいは兵役)をしなくてもいいじゃん!という考え、自己正当化されただけのことの多いその欺瞞の考えが、ある時3割を超えると、誰も批判できなくなるということである。現代がまさにそうである。おひとりさま天国なんて言葉がスルーされてしまう時点で、なかなかに浸透している。出産育児は大変で面倒だから、私じゃなくて他の誰かがやってよね状態になっている訳だ。





下位層の脱落と、結婚出産の変化

色々それっぽい理屈をこねてまで、出産育児をやりたがらない奴にやらせる必要はないうように思えるかもしれない。しかし、実際問題、仮に最低ラインの3割が抜けてしなくなった。0.7で現状維持の再生産を続けるならば、目減りすることは目に見えている。単純計算で、普通に一人が1するだけでは足りずに、1.5の頑張り(出産育児やら)を求められる。(0.7×1.5で、1近くなる) 次の世代でも三割ずつ減るとしたら、ずっとこの頑張りをしなければならないし。もしかしたら、4割5割となれば、もっと大変になる。

人口がへってもいいじゃん。縮小均衡すればいいだけじゃんという楽観的な意見もあるかもしれない。ただ、社会とは皆の労働の分担で成り立つ以上、機械や外国人でまなかったとしても、全部はまかないきれないのだから縮小自体はおこる。すなわち、今よりも色々不便で大変で金のかかる(貧乏な)生活になるということだ。それが耐えられるのか。

栄えている海外にいけばいい、土地にこだわる必要はないという人もいるだろう。日本からでてもいいみたいな。それも正論だが、私には部屋を散らかして掃除のしかたがわからないから引っ越すみたいななんとも無責任の話に思える。これまでのべた通り、自然にしていればこのステージにはどの国でも基本的には到達するのだ。必ず起きる問題にたいして解決を知らないで取り組まないで、ただ新天地を目指すのは、逃げ続けるだけで、解決や前進する話には思えない。

さらに、3割の下位層の脱落は、思わぬ余波を巻き起こす。(野球をそこそこできるやつが、野球なんてしてもしょうがないっしょ、する意味ないしとはいわない。出産育児の苦手なやつが自己正当化として、したくないことをそれらしく語るのだ。全員とは言わないが、大体そういうことだ。)

下位層が抜けると、市場には中間と上位層が残ることになる。すると、相対的に中間層が一番下にされてしまう。最低でもフツメンよね♪となる。中間層の結婚さえ成立しにくくなるわけだ。誤解がないようにいっておくが、引き立て役として下位層も頑張って諦めるな参加しろという話ではない。それぞれがそれぞれの形に収まるだけなのに、最初から欺瞞して諦めることで、様々な悪い余波があるよねという話なだけだ。





おわりに

社会が成熟すれば、いずれ個の時代、心の時代に必ず到達する。すると、出産育児は軽視されて誰もしなくなるのだ。そして、社会が縮んでいく。

そうならないようには、繋がり、社会的繋がりを意識づけて、そう導くなにかの信念体系や仕組みが必要となる。意見や馬があう人同士ならば、繋がりやすいと思うので、共同体主義的なアプローチをすすめたい。あるいは、教育や価値観の進化という形で、遺伝子の囁きからくる、この自然な流れの帰結に立ち向かいたいと思う。それでこそ、理性と知性を持ち得た人間だとおもうからである。まだ、人間は知性を使いこなせていないともいえる。

おひとりさま天国?それで幸福な人もいるかもしれないが、人間は常に期待を求めている。理解者を求めている。誰かと心や頭のそこから繋がりたいし認められたいと思っている生き物だ。その本質に目を背けておひとりさまでいると、いつか虚しさにさいなまれることになると思う。それが人間だと思う。






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