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言葉なき会話で

3年ぶりくらいに知り合いのお子さんにお会いする機会があった。
中学生だった彼は見事なまでにカッコいい今どきの青年に変身していた。

ほんの数分の出来事だったのだけど。
お母さん(私の知り合い)から「覚えてる?前に一緒にご飯食べたでしょ」から始まる投げ掛けの間、彼はお母さんとは目を合わせることはなく、でもちゃんと話は聞いて頷いたりしてコミュニケーションはあらわしていた。

一瞬だけチラリと私を見てくれ、目が合った。
一瞬で充分だった。その瞬間、彼の目は笑い「ああ」と私を認識してくれ、言葉ない会話を交わした。
彼は背も伸び声も低くなり相変わらず母親に対して素直な態度はとれていなかったようだけれども、何も変わってなかった。相変わらず素直でピュアな優しい子だった。

「ほら、ちゃんと挨拶して」と言う彼女の言葉に私は「いい、いい。大丈夫。アイコンタクトでちゃんと挨拶したから。」と言うと、彼はちょっとゆるみ、またフッと笑った。表面上は何も変わってなかったように見えるかもしれないけど。

「ごめんなさいねぇ。ぶっきらぼうで。」とか言ってる彼女の言葉を流し、「また機会あったらご飯一緒に食べましょー」と彼に声かけしてその場は終わった。初めの一瞬以外彼が私と目を合わせることはなかった。

3年くらい前に会った時、私と彼女が食事している所に呼び出された中学生なりたての彼は、母親の会話に反応はするものの、成長期特有のぶっきらぼうさで「ああ。」「違う。」とかの単語で応じていた。
「反抗期って言うのかしらねぇ、最近いつもこうなのよ。」という言葉のなかで彼は黙々と食べていた。
母親である彼女からしたら、幼稚園位の時に一度会っただけの彼の成長を私に見せたかったのだろうけど、私からみたら、中学生の彼が呼び出されたとはいえその場まで来てくれてる事自体が、全く反抗期にはあたらなかった。

食事をしながら、中学生の彼に興味津々の私からの問いかけにも、ぶっきらぼうながらも答えてくれた。ちゃんと考え、言葉を選びながら。
彼女がトイレか何かに席を外した時に、それまでの会話の流れを踏まえて「お母さんとは話しにくい?」と彼に尋ねた。
一瞬ビックリした様子をしながらちょっと考えたあと、ポツリポツリと言葉を出してくれた。

「う・・ん。  おばあちゃんの事をね、悪く言うんだ。  時々だけど。  ほら、耳が少し聴こえにくくなってるでしょ?  だからね、  何回言っても聞こえない とか、  同じこと何回も言う  とか。  仕方ないじゃん?  そういうのお父さんとかと時々話してる。  そういうの言ってるお母さん  好きじゃない。」

「ああ、なるほどね。じゃあお母さんが嫌いとか話したくないワケじゃないんだ?」と更なる私からの問いかけに

「う  ん。  嫌いじゃない。  けど、  そういうこと言ってる時のお母さんとは  話したくない。」

そこで彼女が戻って来たので会話は終わり、彼はまた黙々と食べはじめた。

彼は反抗期どころか、ものすごく親に寄り添ってるなーとその時思った。
人の事を悪くいう時の母親は好きじゃないし話したくない。だから話さない。
それって人間として当たり前に湧いてくる感情で、彼はそれを素直に現してるだけだった。母親である彼女からしてみたら「反抗期」になるのかもしれないけど。
彼の言葉は「そういう時のお母さんは好きじゃない」であり、根本的には好きなんだ。だけど自分の中をザワつかせる「仕方のないことで人を悪くいうこと」をその好きなお母さんがするもんだから、結果黙する態度になる。
「言っても仕方ない」と彼が思ってる部分もあるけど、自分がそれを言葉にすることで、母親を傷つけるかもしれないと思ってるようにも私にはその時感じた。

だからその後よーくちゃんと見てると、母親が決めつけや否定的な言葉を出してるときはYES/NOのアクションしかとらず、彼女が和らいだ会話問いかけをしてる時、彼はぶっきらぼうながらも長めに言葉を返していたし自分の気持ちも現していた。

彼は優しい。そして、たぶん母親である彼女よりも人の気持ちに敏感で、言葉が人に与える影響も無意識に解ってる。
だから憤りを感じるし、それを言葉で現すことも出来ない。心底優しくて自分に素直。
彼女の性格もなんとなくわかっている私としては「うーん、なかなか大変な立場だな」と彼のことを思いつつ、彼女には「いい子ですねー。私は好き。まあそういう時期なのかもしれないから、あまり口うるさく言わない方が良いかもしれませんねー」とか伝えて別れた気がする。
おばあちゃんとはよく話をすると彼が言っていたから、そこら辺はあまり心配してなかった。おばあちゃんもよく存じ上げていて、私としてはおばあちゃんとお話する方が好きだったから。

3年ぶり位に一瞬目を合わせてくれたあの時。
彼と私の間では「あー、相変わらずなのね」「まあね」といった無言の会話が交わされてた。
でも根本の彼は荒んでもおらず、何ならより感性豊かになっており、母親に対する術も身に付けており、素敵に成長していた。
だから「相変わらずでしょー」という彼女に、「相変わらずいい子ですねー。何も変わってない、素晴らしく素敵です。」と答えた。

もう少ししたら、彼は母親に対して「言葉」で現すことが出来るようになるかもしれない。ちゃんと母親の気持ちも組み入れた上での言葉を、自分の気持ちを乗せて出せるようになるかもしれない。彼はそれくらい大きい。

母親という立場と、その知り合いという立場の違いで、ましてや滅多に会う機会がない相手だったから、ハジメマシテの相手にポツリと話してくれたのかもしれない。
でも最近よくこの感覚は感じる。

親よりも子のほうが、何て言うか精神的にひろい。親が子の精神的感覚の広さを解ってない。どうしても「親目線」で捉え、自分が育ってきたものが土台として出てしまうから、その範囲から出られない。
生まれた順番だけのことで、子供のほうがはるかに大人であることも多々ある。それは環境とかもあるのかもしれないけれど、そもそも持って生まれてくる感覚が親世代とは違うのだろうと感じている。それに親は気づいてないし認められない。
「自分の子供」というレッテルから抜けられない。

最近の若者は何も考えてないようで、こちらが思っている以上に捉えている感覚範囲が広い。そしてこちらが「解ってない」ということもわかってたりする。
かといって馬鹿にするでもなく「そういうもの」として捉えている。
ただ、自分の感覚範囲が他の人(親とか)も持っているだろうと思っている間は摩擦というか疑問というかジレンマ的なものは多々あると思う。そして自分を閉じてしまう。だって周りの大人には「言葉」が通じないから。それは自分の身を守る上であたりまえのこと。

新しい感覚を標準装備で生まれ持ってきている子供たち。その感覚は、「大人」と呼ばれる我々がこれから得ていく(思い出していく)感覚。それには「大人」が自分を省みて、いまに至るまで培い身に付けてきた様々な「あたりまえ」を見直さないと難しい。自分基準で彼らを見ている限り、彼らの感覚を理解することは遠い。
よくよく考えてみれば、自分達だって子供の頃一度は思ったはずだ。「大人は分かってくれない」と。自分達だってそうだったんじゃないだろうか。そしてそれは「親も子供の頃があり、育ってきた環境というものがあり、その範囲でしか知らないし出来ない」ということが何となくでも分かった時、少しだけ親に対する何かがゆるんだのではないだろうか。
「自分の親」というレッテルが少しだけ剥がれたとき。

またいつかもうちょっと変身した彼とお話出来る機会があるといいな。
楽しい話がたくさん出来る気がする。
それでも今は、あの一瞬のアイコンタクトで充分だったし嬉しかったからまあいいや。

またいつか会おうね。
心配はしてないけど
右往左往しながらもファイトだね。
自分を楽しんでね。


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