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思考ループと戯れて

久しぶりに「思考」が走り回っていた。「自我」さん大忙し。
そして「自分」というものはつくづく信用できねーなーと笑った。

先週末の夜に、踏台代わりにした椅子から見事に落ち、腰と頭をしこたま打った。
落ちた瞬間「やっちまった!」と思ったのだけど、まあそれで落ちるのが止められるわけでもなく。いまの私にとって骨やっちゃうのが一番困り事で。何たってモロくなる基礎出来ちゃってるから。

うっは!となりながら身体の状態確かめる。
取り敢えず全部動くっぽい。よかった~骨折はまぬがれたかなー。頭も平気っぽいな。
ゆっくりあちこち動かしてみて、いちばん打撃受けたのは腰ちょい下辺りかなー。
呼吸も出来る。うん、歩ける。肩も平気ね。
ん?あー、打った方の足上がんないかー。ま、これくらいならしょうがんないなー。
とか色々確めてしばし安静に。

この辺りから思考サンが走り回り始める。
「足上がらないよ?骨どこかやってんじゃないの?」
「いま痛くないとこも、どこか弱ってる関節やられてるかもよ?」
「これきっかけで余計悪くなったらどうする?」
「仕事行けなくなるかもよ?」
「どこかに連絡しないで平気なの?」
「回復するまでにまた検査数値上がるかもね」
まー、出てくる出てくる。これらがずーっと語りかけ続け、「不安さん」も登場してビビリながらその夜は寝た。

その土日は完全休養と決め込みひたすら寝てたのだけど、その間も手を変え品を変え次から次へと思考サンはやってくる。なかば身体に対して不安持ってたものだから、思考サンの勢いが止められない。
いっとき陥る。「そうだよなー、このままだったらああなってこうなって・・」
で、ループはまってることに気付いて、寝る。

取り敢えず土日寝て、月曜の状態でまた考えよ。 と決めてたので、それがループから抜け出すひとつのきっかけ。はまってることに気付いたら「取り敢えず寝る!あとは月曜!」とさっさと寝ちゃってた。
寝るとやっぱり回復するのねー。正確には「食って寝る」だったけど。
落ちた衝撃で身体全体がまあバランス崩れて、細胞さんに頑張ってもらわねばならぬから「すんません、寝ることしか出来ないんであとよろしく!」てな感じで本気で細胞にお願いして。

月曜朝には結構回復してて、歩くのも全然問題ない。何なら前より歩きやすくなってる?
ん? 落ちて元からダメだったとこ入れ替わったか? そんなことないかー、さすがに。
ひたすら寝てたけど合間に軽いストレッチだけはやってて。もちろん痛みのない箇所だけやんわりと。
普通に出勤したけど、歩くのは調子いい。
ここら辺で気付く。
あーー、意識が痛い箇所に行ってるからだ。
実際落ちる前までの懸念材料だった箇所の調子はすこぶる良くて軽かった。

どうやら、「不安」というものは1つずつしか出せないらしい。次から次へと出してくるからまるで物凄いたくさんあって、にっちもさっちも行かないような感覚に陥るけど、よーくよーく観てると、出てくるのは1つずつ。前の不安が消えないうちに次のが出てくるから、とっちらかっちゃう。
更にそこに自我くんがグワッと掴んで離さないから「ほら、こんなに大変でしょ」と畳み掛けてくる。こりゃーたまらんね。

痛みに対する意識も、新しく痛くなった所の方が不安だからそっちが優先される。そうすると、以前気になってた箇所がまるで何でもないように感じるから面白かった。張り具合とかからすると、そう急に良くなったわけでもなさそうなのに、もうそこは眼中にない!くらいになって新しい痛みに意識が行ってる。
前と変わらないのにね。
それがやたら可笑しくって、「自分の不安の感覚ってなんなんや~。当てにならんなぁ」とか思ってた。
そうなってくるともう思考サンが頑張ってアレコレ出してきても「はい、そうね。確かに今はそこが心配ね。」と相づちだけ打つ感じで、実際は自分の身体の感覚に焦点を合わせる。
確かにまだ痛みは少しある。でも足も上がるようになってきてるし、身体自体からの不安は感じられない。細胞が回復するまでには時間がかかる。だから思考の言い分に乗らなくて大丈夫、と落ち着く。

まー今回のは腫れも内出血もなかったからある程度安心ってのもあったけど、元々もってる身体への不安てものに対して突っ込まれたなー。
いかにいつも自分の「痛み」に対して意識を向けてたか。それも、こことここが弱ってるからという前知識をもとに。

ちょっと別のとこ痛くなれば、それまでの注視してたやつぜーんぶふっ飛んじゃったんだから、いやはや今までどれだけ要らん意識そこに向けてたんだろ。
意識向けるとそこは活性化というか拡大するような感覚になるから、ずーっと弱ってるとこ意識向けてりゃそりゃ回復も遅くなるわなー。
「不安」て意識ずっとそこに向けてるんだから、細胞サンも思うように頑張れんよね。
いや、申し訳なかったっす。

不安を蔑ろや見ないようにするというのではなく、そこは「いま、確かにそういうのを感じてる」と認めた上で、で、どうしたいか と自分の感覚に聴いてみる。その時最善と思えるやるべきことはやる。
今回の場合は「寝ること」ね。
「月曜まで様子見る」と決めて、身体固まりすぎないように少しのストレッチとちゃんと食べること、そして寝る。
思考ループは「月曜まで様子見る」で止められる。月曜になったら状態が変わってる。

もちろん怪我に対して全部そうするというのではなく、今までの自分の身体を毎日チェックしてた感覚とその時の状態で今回はこうだった、って話で、状況違ってたら速攻病院行くとその時感じたかもしれないしそれはその場で変わるけど。

思考ループ何で緩んだかなあと考えてみたのだけど。
多分ほんのちょっとでも「大丈夫」って感覚が出た時じゃないかなあと思う。
短い時間寝て、起きる。トイレに動く。うん、他のところは痛くなってない、大丈夫。ストレッチで緩められる箇所が増えていく。うん、大丈夫。ちっちゃな「大丈夫」拾うたびに、その瞬間は「安心」が出てる。そうやって少しずつ思考の暴走をスピードダウンさせて、隙間を作って「安心」を広げてく。
で、これには頭のなかだけで考えてるのだと難しいのだと思う。身体を使う。何でもいい。
食べとかなきゃと料理作ってる時に「打ったとこ以外は痛み出てない」と分かる。湯船から立ち上がるときにちゃんと立ち上がれることが分かる。
身体を痛めたときは制限あるけど、そうでない時の思考ループは、幾らでも「動く」事で和らげることができる。おうちの中でも沢山あるし、外に出掛けてもいい。じっとして悶々と頭のなかだけでなんとか終わらせようと頑張るのを諦めてみる。何ならその場でラジオ体操でもやればいい。
何やるのでも、その事に真剣にやる。
今回はご飯食べる時も真剣にモグモグしてた。「口のなかで噛むことが出来て、ご飯食べれて、それが栄養になって細胞復活頑張ってもらえる~ありがたや~」とかアホなこと思いながら。でもその間は思考ループ止まってる。

うーん、ここまで思考ループワールドに取り込まれたのはお久かたぶりだったけど。
思考ループも癖というかパターンというかそんなもんがやっぱりあるなぁと思ったし、ループ作るにも終わらせるにも身体とは連動してるよなーとか。
自分の真ん中に戻れる事はやはり大切。思考と距離置いてみれる位置。ループ最盛期は真ん中にいても心ざわつくけど、「思考が走り回ってる」は認識することが出来るから、だんだん落ち着いて緩んでくる。

自分の真ん中に落ち着けるようになると、自分に対する安心感が増すし、自分の中の違和感も気付きやすくなる。自分の中の違和感は、本来の自分とズレてる感覚。
自分への安心は私にとってかなり大切。本来の自分である事への安心感。これでいいという感覚。外側で起きてることを基準に考えるのではなく、外側に映し出されたことを踏まえて、自分の真ん中で「さて、どう在りたい?」と感じられる場所。
ズレては戻る、ズレては戻る、その繰り返し。でもそのフィールドはだんだん広がっていく。ココロが静かな時間が増えていく。すると聴こえるものも気付けるものも増えていく。感覚が変わっていく。現しかた現れかたが変わってくる。それがまた面白い。

信用ならない「自分」も安心できる「自分」もどちらも「自分」だけど、「自分の真ん中」はまたベツモノ。

全体が変わってきたこともあり、思考や自我もそのハタラキが変わってくる気もする。
今までちょっとやっかいだったのが、サポートするような立ち位置へ。もしかしたらそちらが本来のハタラキとして装備されてたのではないのかしらんとか思ってみたりもする。
そうであっても、今まで繰り返し染み込んでいるもう要らない思考クセはサヨナラするのがお気楽さん。見つけたらお掃除して、スペース作って新しいハタラキへ。

身体気遣ってるふりしてそこに「治ってない」意識向けてたみたいだから、せっかく固まりやすいこの身体、幾つか意識の向けかた試してどう緩まるのか観てみようかなー。

そんな遊びをしてみようかな、と。


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