沈黙は承認のしるし
ボルドー色のニットのドレスを着た自分が鏡に写っている。
特別な時にも着る服だけれど、カジュアルな場面にもさらっと着てしまう服である。
彼と車で2時間ほどかけてビーチに行った時にも、この服を着ていた。
風が強く、凍えるほど寒い日だった。
部屋に戻りベッドに横になると、彼は私の胸の中に顔を埋めてきた。
何も言わずに私はそれを受け入れる。彼は何も言わない。
だから私も何も言わなかった。
腕に彼の頭の重みと冷たさを感じた。
見ると彼は静かに泣いていて、ボルドー色のドレスの一部が、色濃くなっていた。
男の人が泣く姿を見るのは初めてではないけれど、私は少し動揺した。
私が彼の涙に気づいたことに気づいても、彼は恥ずかしがるわけでもなく、涙を拭くこともしなかった。
彼が泣いているワケはもちろん分かっていた。
去る方は気楽だ。去られる方はいつも辛い。
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この手紙を君に書けることをとても嬉しく思うよ。
僕たちが連絡を取り始めた時のこと、今でもよく覚えている。
君は一日にたった2通くらいしか返信してくれなかったけどね。
恐らく朝起きて仕事に行く前と、仕事から帰ってきた時。
でも君は、いつもすでに夕飯を済ませていた。
まるで、僕が君をディナーに誘うことを避けているかのように。
でも、君が僕の相棒オジーと一緒に散歩に行って、お互いに意気投合した後、君はよく僕に連絡をくれるようになった。
君が会いたいのは、僕ではなくて犬のオジーだっていうのは分かっていたけど、それでも僕は君に会えるならなんだって良かったし、オジーも幸せそうだった。
君は過去の嫌な経験によって、他人を思いやることができなくなった自分にひどく落ち込んでいたけれど、僕が君に初めて会った時本当に感動したんだ。
君があまりにも優しく思いやりのある素敵な女の子だったから。
その経験の前の君はどれだけ思いやりのある女の子だったんだろう。
君がいることが、僕の日常になってきた時、君は突然
「すぐに日本に帰ることになった。」と言った。
”すぐに”とは言っても、少なくともあと数ヶ月はここにいてくれると思っていたから、まさか1ヶ月後に帰国してしまうなんて思いもしなかった。
もちろん落ち込んだし、ショックだった。でも、こればっかりは僕にはどうしようもできないことだ。
これは君の人生だから。
家族と離れて、海外でひとりで暮らすっていうのは、かなり大変だということは僕も同じだからよく分かる。
僕も家族のことが心配になるし、ここでこの先どうやって生きていこうか考えると、未来のことが不安にならないわけがない。
「未来の僕は一体なにをしているんだろう。どうやって生きているんだろう。」ってね。
君と出会ってから、わりと真剣に日本に行くことを考え始めた。
実は、日本に行くことは以前から夢見ていたことなんだ。
でも、少し怖い。
何かを変えるっていうのは、勇気のいることだから。
君と会える時、僕はいつも幸せだった。
夜中君の家に車で行くと、君はいつも寒空の下で僕を待っていたね。
部屋に入ると、スリッパを差し出してくれて、温かい紅茶を淹れてくれた。
日本人にとっては当たり前のことだ、と君は言っていたけど。
君の心遣いは、僕にとってとても心地が良かった。
君と一緒にいる時は、いつも穏やかで温かい気持ちになれた。
そんな人と出会えて僕は本当に幸せだよ。
君は本当に素晴らしい女性だ。
こんなにも、魅力的で思いやりのある女性に出会ったことがないよ。
だから、いつまでも変わらないでほしい。
君は君らしく生きて。
君がしたいと思うことだけをすればいい。
たとえそれが、誰かのためだったとしても、君がしたくないことはしなくていい。
これは君の人生だから。
君が望む方法で生きていくべきだ。
君が日本に戻った後も、連絡を取り続けられたらいいな。
これが最後だなんて言わないで。
未来のことは誰にも分からないのだから。
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彼がくれた手紙の最後には、日本語でこう書かれていた。その字はまるで、右利きの人が左手で書いたかのような、上手いとも下手とも言えない字だった。
「君がいなくて寂しいよ!
私を忘れないで下さい!!!」
一生懸命調べて書いたのだろうか、と思うとその労力を愛おしく感じる。
私も彼に伝えなければいけなかったことを思い出した。
私もあなたの心遣いに感動した、ということ。
思いやりのない人間は、他人の思いやりに案外気がつかないものだ。
夜はあまり電気をつけたくない私は、彼が部屋に来たとき、暗いキッチンで紅茶を淹れていた。
彼はいつも、スマートフォンを懐中電灯モードにして、私の手元を明るくしてくれた。
彼は賢い人だった。
賢い人は優しいし、
優しい人は大抵賢い。
私は何も言わずに静かに泣いている彼の涙を指で拭った。
彼は何も言わなかった。
だから私も何も言わなかった。
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