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お名前ひらがな組合

8月に、甥っ子が生まれた。
先日ようやく名前が決まったとこのとで、実家から連絡があった。

命名「佑(ゆう)」とのこと。

この字面を見て真っ先に思い浮かんだのが、大きくなった甥っ子が電話口の相手に
「あ、えっと、にんべんに右です!」
などと言っている姿だ。

彼が成長した未来の社会では、さらにデジタル化が進み、もはやそんなことを説明しなくちゃいけないシチュエーションなんてほぼ存在しないだろう。

だけど呑気な叔母ちゃんは、そんな取り留めもない日常の一コマが、佑の未来にあれば幸せだな、なんて思う。

漢字一文字の名前って、シンプルでかっこいい。
佑の父である我が兄も漢字一文字なので、その系譜なんだろう。



ところで私の本名の表記はひらがなである。

なんだか昭和っぽく古めかしい響きの名前であり、「うちの母さんと同じ」と言われたこと、過去に計7名。

小学校にあがった時、クラスの出席簿を見て、1人だけ漢字ではないことに、純粋に「なんで?」と思った記憶がある。

思えばあれが、自分が数的な「マイノリティ」のサイドにいることを感じたいちばん最初の体験だったのかもしれない(もちろんそんな言葉は知らないので、感覚的に)。


だけど私は、自分のひらがなの名前を結構気に入っている。

かつて、年賀状を送り合うことが学校でのブームであった頃、必ず毎年、何人かの同級生が間違えて漢字をあてはめた宛名を書いてくれていたのが面白かった。
(名前がひらがなであることが意外と認知されていないことはちょっと寂しかったけど)

人によってあてはめる漢字が微妙に違っていて、そのバリエーションが楽しい。

正月を迎える度、勝手に「あの子は私にこんなイメージを持ってくれてるんかなぁ」と、自意識過剰にほくそ笑んでいたものだ。
大抵、当てずっぽうとか思い込みで書いただけだろうが。受け取り方は自由だ。

ひらがなは、文字そのものに意味はなく、いわば記号の羅列である。

だからこそ、一つの意味の色に染まらない鷹揚さや、解釈の余白を与える懐の深さみたいなものがある気がするのだ。

そして名前がひらがなの人を見つけると、勝手に親近感を抱いている。

もしも「お名前ひらがな組合」的な寄り合いがあったら、
あるあるネタ(たとえば、ふりがな書くときの二度手間感!や、習字の時のバランスむずい!とか)や、
画数少ない選手権!とかで大いに盛り上がれそうだ。


一方で、親御さんが意味と思いを込めてつけられた漢字の名前も本当に素敵で羨ましいなぁと思うこともある。

職場に「唯(ゆい)」という名前の同僚がいて、「英語でonlyです(笑)」と言ってたのが、めちゃくちゃカッコいい!と思った。
ひらがな民にはできない表現だ。

友達の名前で使われている漢字の意味を調べて、なるほど〜と思うことは密かな楽しみだ。


甥っ子の「佑」という漢字には、「人をたすける」という意味があるらしい。

たすけ上手は、たすけられ上手。

他者をたすける子に育つのは素晴らしいけれど、そればかりだとしんどくなる。

人をたすけ、たすけられながら、「お互い様」の関係性を築けるような、そんな人生を歩んでほしい。
叔母ちゃんは押し付けがましくそんなことを思うのだった。

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