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真面目とか完璧主義とか

玉川上水と多摩湖周辺を散策した後、遠方に住む姉のことを思い出した。
きっと懐かしがるだろうと思ってLINEで写真を送付したついでに…
仕事の状況を報告した。

一連のやりとりで、こんなコメントがあった。

「完璧主義」
あと、「真面目だから」という言葉。

いろんな人に何度となく、それを言われた。特に勉強や仕事がらみで。
私にとっては決して褒め言葉ではない、と感じている。
だから私は誰かにそれを言うことは滅多にない。

以前扱っていた仕事はリスクマネジメントが求められ、職人技という側面もあったため、完璧主義は生かされる業務だったと思う。
また、申し送り文書、プレゼン資料なども、読む人が理解できるように言葉を選び、必要十分な質・量・時間をもりこんで作成していた。若い頃は睡眠時間を削ってそれらを作成することもあったし、新しいシステムを構築する際には、ある程度楽しんで資料作りに没頭したこともあった。
そのようなことに対して真面目で完璧主義と言われても、やりたくてやっている時は、半分は流せていたと思う。

しかし、のちにそれも苦しくなっていった。
そのリスクマネジメントの考え方自体が、なかなか周囲に理解されなくなっていった。管理職として行き詰まって、落ち込むことが増えていった。

そこで5年前に転職し、仕事内容を変えてみた。
一からのスタートだから、やったことがないことでうまく行かないことは当然なので、質問したり教えてもらうことを遠慮しない、と思って頑張っていた。
しかし心理状態としては、手を抜けと言われてもなかなか抜けずに自分を持て余すことも増えていった。
抜きどころがわからない。
自分の至らない・足りないところに目が行きがちで、常に自分のやっていることに確信が持てず、これで本当にいいのか?と地に足が着いていない感覚が抜けない。
さらに直近1年間は、自分の言動と上司の考えとのマッチングに苦労したので、常にそれが気になってしまった。
で、メンタルダウンしてしまうのだが…

「真面目だから」とまた言われた。

それは誠意と受け取ってくれないのか?

・・・

思えば、小さい頃から「真面目でいい子」という立ち位置だった。当時はおそらく褒め言葉で、特に、母親は私のことをそう思っていたかったと思う。

高3のとき、体育の先生からの年賀状に「真面目すぎて、大丈夫かな?と心配になります」と書いてあった。
複雑な気持ちだった。反発する気持ちと、諦めにも似た気持ち。
自分でも、それはひしひしと感じていたのである。
前記事でも小学生のときから無邪気さがなかったことを書いたが、それはそのまま中高時代に続いていた。”箸が転がってもおかしい”年頃で、そういう場面は時にはあっても、全体としてみたら青春時代は決して明るくはなかった。

完璧にしたいと思ってそうしているときの方が、圧倒的に少なかった、と思う。その行動の裏には、穴があると突っ込まれるのが嫌、マイナス面を隠したいという心理もおそらくあったと思う。
テストで95点取った時に、95点も取れた、と思うか、あと5点に目がいくか、そんな感じである。

完璧主義は、私にとっては苦しいけどそこから脱することが難しかったことの一つであったと思う。
というのも、実はそんなに完璧でもない、から。
マイナスを隠したい、という不安と恐れからの行動が、そんなに”完璧”に演じ切れるものではないのである。

一方で、そんな自分だからこそ?スポーツ観戦が好きだし、アスリートに惹かれることも多い。
体調管理や練習にはじまる、行動面。
自分の完璧なんて、吹っとばされそうなストイックさ。
でもそれは、日々の行動の先にある、目標や夢という前向きな自分軸があるからこそ成せる完璧さなのである。

そんなありかたに憧れるし、また夢中になるものが欲しいと思っている。
そこにストイックになっているとき、誰かに真面目で完璧主義なんて言われても、「完璧主義ですが、なにか?」と笑い飛ばすこともできるのだろうな。

そう、真面目で完璧であってもいい。望むものに向かっているときは多分それは幸せだと思う。
一方で、全てにおいて完璧、でなくてもいい。抜けてるところがあってもいい。そんなふうに自分を許して受け入れることが、今の私に必要なことなのだろう。

そう、整いすぎていない、はみ出てるのも好き、という感性が自分にはあるのだから。

そして本当は、ひとつひとつは凸凹でも、もっと大きな視座からみれば全体として完璧なバランスだったりもするのだから。

1本で生えてる芽の健気さに惹かれる