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〈現代・前衛・陶芸〉我々は皆やがて土へと還る/「走泥社再考ー前衛陶芸が生まれた時代」宮永理吉《海》をめぐって


私は長い間アートや美術に触れているが、”陶芸”というものをほとんど知らなかった。〈走泥社(そうでいしゃ)〉という、戦後の前衛陶芸家集団の存在を意識するようになったのも、50歳を過ぎて、生まれ故郷の関西へ拠点を移してから、つまりここ数年のことである。

八木一夫 「ザムザ氏の散歩」1954(京都国立近代美術館蔵)

この夏、京都国立近代美術館で開催されていた《走泥社再考ー前衛陶芸が生まれた時代》展を、私は三度、訪れている。

陶器や花器という実用性を伴ったやきものは、20世紀になって、それを鑑賞する、あるいは抽象的に表現されたオブジェとして、実生活にはほとんど役に立たない、いわば無用の長物としての”芸術表現”作品となった。
現代陶芸、前衛陶芸という言い方はない。だから、一語一語区切った、言うなれば「現代・前衛・陶芸」。

私が走泥社メンバーで最初に心惹かれた作家は、熊倉順吉、鈴木治、山田光だった。
今回の展覧会では、創設メンバー、八木一夫作品はもちろんのこと、その周辺の四耕会辻晋堂森里忠男ら作品にも眼は惹きつけられた。

鈴木治「作品」 1954(京都国立近代美術館蔵)
山田光「塔」 1964(岐阜県立美術館蔵)
熊倉順吉「風人'67」 1967(京都国立近代美術館蔵)

何度か走泥社の回顧展の会場に足を運ぶうちに、私の眼は、徐々に変わってきていることに気づいた。
理由はわからないが「自由で、縦横無尽な、爆発的な表現」の中に、初めは前衛陶芸の魅力を見出していた。
それが次第に、複雑な形のやきもの群が、魅惑的なカタチ・表現という形という一種のまやかしに、私の眼が騙されているような気がしてきた。

宮永理吉「椅子A」1970(国立工芸館蔵)

そして最後の大きな展示室の出口に置かれた、青白磁の物体に、私の眼は次第に強く惹きつけられていくことになった。陶芸家・宮永理吉の作品である。
宮永理吉とは、1935年、京焼の名門宮永東山窯の長男として生まれた三代宮永東山である。1970年に、走泥社の同人となる。
「現代・前衛・陶芸」家集団のメンバーとして、そして京焼の名門窯の陶工として、戦後から70年近く、2023年の今なお現役で活動を続ける芸術家だ。

宮永理吉「三角の中の四角」1973(国立工芸館蔵)

ここでは私が最終的にふるえた作品、《走泥社再考》展の最後に置かれた宮永理吉(三代宮永東山)の作品一点について触れておこう。
その作品は、京近美の展示では、展示順入口へと円環される最後の展示として、ある意味象徴的に、走泥社の到達点を示すかのように置かれていた。

「海」(1973/京都国立近代美術館蔵)と題された、小さな正方形の箱は、一点の角の先を地面に刺しているように起立している。
が、しかしその箱は、重力の重みで下方へと沈み、ゆるやかな湾曲を起こしているのが、見ているうちにわかってくる。

宮永理吉「海」1973(京都国立近代美術館蔵)

それぞれの面に浮き出た波模様は、その重力によるたわみとは関係なく、地面と並行をとる形で波打つ。まさに「海」だ。海のように感じる。
だが、そう感じているのは私の眼と心であって、眼の前の物体は、海ではない。緩やかなたわみや波模様とは、全く違う、硬く崩れることのない、水気のない風も通さない、土が火によって変化したやきものなのだ。

硬い「海」、崩れることのない「波」、永久に箱の中に閉じられたかのような「海面」。私たちが生きる地球とは、海に包まれている大地とは言え、永久に崩れることのない土の塊だ。
しかし目の前にあるそれは、その本当の大地の地面に落とすと、割れるだろう。その瞬間、形を失う、永久の形を維持するものではない。それは、風に揺れる海水の波が表面に刻まれ、火にさらされ一時の形を表した土の塊。

その硬さと揺らぎは、まさに私たちの生命が、人や地球という入れ物の中で感じている「恐るべき不確かさ」と同じ感覚だ。鑑賞者が感じる硬さと揺らぎの「恐るべき不確かさ」とは、人が肉体を持って生きている、その感覚に他ならない
だとすれば「海」と題された青白磁のやきものは、陶器や花器という生活実用性から、最も遠く離れたモノようでありながら、実は、我々が生きる不確かさを、常に補填し続ける、極めて”本当の意味で”実用的な物体と言える。

それが果たして、〈現代・前衛・陶芸〉が目指した地平なのかどうか、現在のところ私にはまだわかっていない。
だが、それを見る私に言える確かなことが一つある。
それは「我々は皆、やがて、そんな土へと還る」のだということ。

火炎を浴びた土の塊は、果たして本当に、私たちに必要なモノなのか?
それは人類に何をもたらすのオブジェなのか? 
それは人類の生命に欠かせない大事な何かなのか?

私たちが生きる上で、最も大事なことは何か?
「恐るべき不確かさ」が何か?を常に埋めてくれるモノではないか。
土の上で、雨や風や、太陽の日を浴びて生きる、私たちの肉体という入れ物にある”私という魂”は、硬さと揺らぎの間で不確かに存在する。
その恐るべき不確かさを埋めるモノ。
それは何の役にも立たない無用の長物かもしれないが、私という魂はそれを、そんなモノを欲しているのだ


 人生は短し、芸道雑談は長し。
 我々もまた、やがて土へと還る、無用の長物。

《走泥社再考ー前衛陶芸が生まれた時代》京都国立近代美術館(会期終了)   
 2023年12月19日ー2024年2月18日・岐阜県立美術館
(以降、岡山県立美術館、東京・菊池寛実智美術館を巡回予定)

※写真はすべて特別に許可を得て撮影しています。


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