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時々、自分に問いかける。

子どもの頃から、「いつ死んでもおかしくない」と思っている。
持病があったわけではない。突然、大切な人を失ったわけでもない。
けれども、「誰にとってもそれは真実だ」と思っていた。

そして、大人になると、「子どもの頃から思っていたことは、正しかったんだ」と思うようになった。
元気だった人が突然亡くなったり、天災で命が失われたりすることを、数多く目にした。

パートナーと喧嘩になると、一日以上持ち越したくない!と、必死になる。
最期のやりとりがケンカにしたくはないから。
(その思いからくる性急さは、時にケンカ相手にとってはしんどい時もあったに違いない。話し合いと仲直りをその日中におさめなければならないのだから)

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修験道の山・出羽三山と山伏修行の師匠に出会い女山伏となってからは、肉体の死に関する受け取り方が変わってきた。同時並行で、終末期医療について学んだり、昏睡状態の方々を支援する心理・身体的アプローチ技法のトレーニングを受けたりしたのも影響があったと思う。それまでほどの焦燥感はなくなったし、ひとまず、「自分の死」に対しては、確実にとらえ方が変わった。

けれどもやはり、「肉体の死」はあるひとつの区切りであることは変わりない。「自分の死」よりも、大切な人の「死」を受け止めることは、難儀なことだろう。とはいえそれは、確実にやってくる。100%の決定事項だ。

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私は、自分の今の状態を定点観測する方法を持っている。
自分にこう問いかけるのだ。

「もし今、この瞬間に死を迎えることになったら、『少し心残りはあるけれど、満足した人生だった』と言えるか?」

Yesであれば、いい状態。
Noであれば、その要因についてアクションを起こしていく。

いつになっても、少しの心残りはあるだろう。自分以外の人に関わることなどは、ゼロになるには修行が足りなさすぎる。
とはいえこの「少しの心残り」があった方が、喜びが深いようにも思う。
私の問いは今のところ、これがベストだ。

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今朝、自分に問いかけてみた。
Noだった。

おおう。なるべく、死なないように気をつけよう。


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