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【異国合戦(12)】フビライの南宋侵攻

今回は前回書いたフレグの西征と同時進行で進められたフビライの南宋侵攻について。

前回記事は下記よりどうぞ。

これまでの記事は下記のまとめよりお読みください。


フビライ、登場

 1251年、モンゴル帝国の第4代皇帝(大ハーン)に即位したモンケ・ハーンは東方と西方、二正面の軍事作戦を企図した。西方遠征を任されたのが皇帝モンケの弟で後にフレグ・ウルス(イル・ハン国)の祖となるフレグであった。フレグの西征については前回記事参照。
 そして東方、つまりは中華世界の攻略を任されたのがフレグの兄で後に皇帝として日本侵攻を承認することになるフビライである。フビライはこの時、既に36歳になっていたが、実はこれ以前にどこで何をやっていたのかほとんど記録がなく、よくわからない。モンゴル帝室の一員としてトルイ家の一翼を担う存在であったのだろうけれども、そのトルイ家が長く帝国の非主流派であり、フビライの活躍が日の目を見ることはなかった。
 兄・モンケの即位により、フビライは突如、歴史の表舞台に登場する。  

フビライの対南宋戦略

 東方攻略を命じられたフビライは南モンゴル(現在の内モンゴル自治区)から華北にかけての軍事指揮権を与えられた。しかし、東方地域は「東方三王家」と称されるチンギス・ハンの弟たちを始祖とする一門と「五投下」と称される5つの有力部族の勢力圏であり、皇帝の弟とはいえ突然やってきたフビライは対外戦争の前に組織作りから取り組まねばならなかった。
 フビライの戦争は東方に着任してから2年が経った1253年の夏に始まった。最初の目標は雲南地方の大理国に定められた。最大の目標にして最強の敵は言うまでもなく南宋であったが、フビライはいきなりの直接対決を避け、南宋の朝貢国である大理国を攻略し、南宋の側面と後方を押さえることを狙った。

南宋と大理国の位置関係

 モンゴル高原とは異なる雲南地方の亜熱帯の気候にモンゴル軍は苦しんだが、1253年12月には首都・大理を攻略、翌年には大理国を降伏に追いやった。
 フビライはその後、南宋に侵攻することなく、本拠へと帰還し、腰を落ち着ける。ひたすら西へ西へと進軍したバトウやフレグの西征とはこの点が違った。フビライは強敵南宋との戦争を長期的な視点で考えていた。
 しかし、皇帝モンケはフビライの思惑とは異なり、早期の南宋侵攻を望んだ。戦略の違いにより、フビライは東方攻略の担当を外されることになる。

モンケ・ハーンの親征と崩御

 フビライを解任した皇帝モンケは自らの南宋への親征を決断した。フビライから切り離した東方三王家と五投下の軍勢は、三王家のひとつオッチギン家のタガチャルが指揮することになり、モンケの直属軍に先んじて南宋へと侵攻した。
 1257年10月、タガチャル軍は漢水を挟む襄陽・樊城の両都市の攻略を開始する。しかし、タガチャル軍はわずか1週間の包囲戦の後、あっさりと撤退してしまう。撤退の理由はわからないが、皇帝モンケの意に沿うものではなかったことは間違いない。
 遥か西方のイラン・イラク方面にあるフレグ西征軍から人材を呼び戻すことは非現実的であり、モンケには更迭したフビライを再起用するしか選択肢がなかった。タガチャルはフビライの指揮下に戻された。
 モンケは弟・フビライを再起用したが、フビライの対南宋長期戦の方針を受け入れたわけではない。モンケの方針は変わらず短期決戦であり、フビライには黄河、淮河、長江という大河を越えて真っすぐ南下する過酷な侵攻路を進むことが求められた。 

 1258年秋、皇帝モンケは自ら軍を指揮し、四川方面から南宋へと侵攻した。しかし、同時に進行するはずのフビライの東路軍は出陣が遅れた。これは、フビライの怠慢ではなく、人事の混乱、作戦の変更、過酷な侵攻路への準備が重なった必然であった。結果、モンケの皇帝直属軍が戦線を突出することになる。フビライはこの年の年末、ようやく軍を南へと進めた。
 1259年7月、南下を続けたモンケは重慶を攻略した。しかし、連戦と四川方面の猛暑が皇帝の体力を奪っていた。翌8月、陣中にてモンケは突如、崩御する。死因は赤痢、あるいはコレラともいわれる。後継者を言い残すこともない急死であった。

フビライの選択

 後継者を言い残さなかったモンケであったが、現実的な選択肢は3人に絞られていたと考えてよいだろう。3人とは、フビライ、フレグ、アリグブケの3人の弟たちである。モンケには複数の皇子がいたが、みな若すぎた。この時点でモンゴル帝国はチンギス・ハン以来、オゴタイ、グユク、モンケと歴代皇帝はすべて40代で即位しており、若年の皇帝はいなかった。拡大を続ける帝国は、血統の正統性だけでなく、複数の部族を束ねて戦争を遂行する力量が求められた。
 フレグは西征軍の総司令官として多大な戦果を積み上げていたが、中東での戦争はいまだ継続しており、本国で行われる新皇帝選出のクリルタイ参加は無理であった。事実、フレグは自身の帝位継承を断念し、イランを中心とした独自の勢力圏を築くことになる。そうなると、後継者はフビライとアリクブケの2人に絞られる。
 兄の訃報を聞いたフビライは帝位継承を意識したはずである。帝位を狙うなら本国への帰還を少しでも急ぐべきと考えるのが普通であり、実際に側近たちからは帰還を求める意見が出された。

 しかし、フビライの選択はさらなる南下、南宋との戦争継続であった。そうした方が亡き兄の意志を継ぐという大義が鮮明となるということに加え、降伏した漢人を加えて肥大化した軍団を繋ぎとめることができるという判断があったと考えられる。急ぎ本国へ退却することで、降伏した漢人たちが再度南宋に帰順することを恐れたというわけだ。もし帝位継承が実力行使となるならば、漢人の知恵と軍事力をフビライは手元に置いておきたかった。

 1259年9月29日、フビライ軍はモンゴル軍として初めて長江を渡河した。3本の大河を越えて南宋に侵攻しろという兄・モンケの遺命を忠実に果たしたことになる。フビライ軍は鄂州(現・武漢)を包囲した。
 フビライの長江渡河は南宋だけでなく、モンゴルの南宋侵攻諸軍にも大きな衝撃を与えた。皇帝崩御によって情勢を見守っていた諸将は次々とフビライの指揮に加わる姿勢を明確にした。特に南宋攻略で先帝の不興を買ったとはいえ、いまだ一大勢力であった東方三王家を率いるタガチャルが加わったことは大きな意味を持った。皇帝崩御の後、モンゴルに帰還せず南進を続けたフビライの選択は成功であった。

 こうなるとフビライが南宋攻略を継続する意味は無い。12月23日、フビライは再び長江を渡った。今度は南から北への渡河である。満を持しての北還が始まった。

その時日本では

 今回も同時期に日本に何があったかを年表にまとめます。(太字はモンゴルの出来事)。

1252年 宗尊親王が征夷大将軍となり、鎌倉下向。
1253年 フビライが大理国へ侵攻
1256年 北条時頼が執権、北条重時が連署を辞す。
1257年 北条時宗が元服
    フビライが南宋攻略軍を更迭される。同年年末に復帰。
1258年 大ハーン・モンケの親征。四川方面へ侵攻。
1259年 8月、モンケが崩御
    9月、フビライが長江を渡河
    12月、フビライが北還を開始

1260年 日蓮が「立正安国論」を上程

第13回に続く。


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