清原弘行

河内国出身/鎌倉時代について書きます。 週に1~2回更新予定。

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河内国出身/鎌倉時代について書きます。 週に1~2回更新予定。

マガジン

  • 異国合戦

    文永の役から令和6年で750年。 東アジアの安全保障環境が激化する中、いま蒙古襲来を考えます。

  • 大河『鎌倉殿の13人』感想

    2022NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の感想と解説まとめ。

  • アニメ『平家物語』感想

    TVアニメ『平家物語』の感想と解説を書きます。

  • いざ鎌倉:本編

    鎌倉時代初期(建久~承久)の解説記事まとめです。

  • いざ鎌倉:人物伝

    本編で死亡・失脚した人物の解説記事です。

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鎌倉時代(建久~承久)を解説する

このnoteでは建久3(1192)年の源頼朝の征夷大将軍就任から承久2(1221)年の承久の変までを解説する記事を連載しています。 週に1~2回の更新ペースです。 2022年 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の予習にご活用ください。 記事本編は下記のマガジンにまとめてあります。 これだけ読めば鎌倉時代初期30年の流れがわかる内容を目指しています。 人物伝では本編で死亡、あるいは失脚した人物を解説しています。 本編の進行に合わせて記事を追加します。 コラムは本編を補足する目的

    • 【異国合戦(19)】偽りの使者

       今回は蒙古襲来前の最後の使者となる趙良弼の来日を中心に、日本・モンゴルの外交と鎌倉幕府の防衛体制構築について解説します。 前回記事は下記のとおりです。  これまでの全記事は下記から読めます。 趙良弼の来日 文永8年(1271)9月19日、モンゴル帝国からの第5次使節団が博多湾の今津に上陸した。正使を務めたのは女真人の趙良弼。フビライが皇帝に即位する以前から側に仕えた忠臣であり、南宋との戦争や占領地支配に功績があった。これまでフビライの命を受けた高麗人が大宰府に至ったこ

      • 【異国合戦(18)】源氏将軍、復活

         久々の更新となってしまいました。  すみません。  今回は文永8年=1971年前後を中心に日本・高麗・モンゴルの動きを整理します。  これまでの全記事は下記にまとめてあります。 皇族将軍から源氏将軍へ 鎌倉幕府はモンゴル帝国からの使者到来という事態に際し、これを無視するという態度を取り続けた。その一方で万一の事態に備えて体制の引き締めを図っている。  文永6年(1269)4月、幕府は3年前に執権による訴訟直接裁断を目的として廃止した引付を復活させ、翌5月には文永4年の徳

        • 【異国合戦(17)】モンゴル帝国に拉致された日本人

           今回は比較的マイナーであまり知られていないモンゴル帝国に拉致された日本人の物語。  同時並行で進んだ高麗の政変と合わせて解説します。  前回記事は下記のとおりです。  これまでの全記事は下記にまとめてあります。 フビライの不信 モンゴルの国書を持った高麗使・潘阜が大宰府に至った1268年正月、大陸では高麗国王・元宗の弟である安慶公淐が新年の挨拶としてフビライを訪ねた。接見に応じたフビライは安慶公淐を叱責したと伝わる。前年高麗が、黒的と殷弘のモンゴル使節を日本に案内しなか

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        • 異国合戦
          20本
        • 大河『鎌倉殿の13人』感想
          31本
        • アニメ『平家物語』感想
          11本
        • いざ鎌倉:本編
          51本
        • いざ鎌倉:コラム
          9本
        • いざ鎌倉:人物伝
          12本

        記事

          【異国合戦(16)】蒙古国書、到来

          今さらですが、あけましておめでとうございます。 本年は文永の役750周年イヤー。 記事内容も文永の役直前までやって参りました。本年もよろしくお願いします。 前回記事は下記よりお読みください。 これまでの全記事は下記にまとめてあります。 破られる平穏 5代執権北条時頼の後を継承して執権に就任した6代赤橋長時、続く7代北条政村は時頼嫡子である北条時宗が成長するまでの中継ぎにすぎなかった。北条一門を中心とした幕府首脳は得宗(北条家嫡流)である時宗の成長を待ちつつ、時宗が絶対的

          【異国合戦(16)】蒙古国書、到来

          【異国合戦(15)】将軍宗尊親王の追放

          今回から久々に日本パート。 鎌倉幕府の話に戻ります。 前回記事は下記よりどうぞ。 日本パートとしては第10回の続きですが、第10回は番外編的に日蓮の話を書いたので鎌倉幕府の話としては第9回の続き。 これまでの全記事は下記のまとめよりお読みください。 小侍所別当・北条時宗 モンゴルでフビライとアリクブケの帝位継承戦争が始まった1260年(文応元年)、北条時宗は10歳となった。この年の2月に小侍所別当に就任する。時宗にとって初めての役職就任であるが、これは将軍(鎌倉殿)の

          【異国合戦(15)】将軍宗尊親王の追放

          【異国合戦(14)】モンゴル帝国による朝鮮侵攻の歴史

           今回はフビライ・ハーンの皇帝即位から少し時間を巻き戻し、モンゴルによる朝鮮侵攻について。  モンゴル帝国全体の歴史から見れば重大な軍事作戦ではないかもしれませんが、日本侵攻の前史としては重要であることは言うまでもありません。 前回記事は下記のとおり。 これまでの記事は下記のまとめよりお読みください。 高麗の武臣政権 日本で鎌倉幕府が、そしてモンゴル高原でモンゴル帝国が生まれた頃、朝鮮半島を統治していたのは高麗国であった。高麗は、鎌倉幕府やモンゴル帝国と比べると「先輩」

          【異国合戦(14)】モンゴル帝国による朝鮮侵攻の歴史

          【異国合戦(13)】帝位継承戦争

          今回は第5代大ハーンの地位をめぐる帝位継承戦争について。 前回記事は下記よりどうぞ。 この連載になって過去最多のPV数でした。 目を通していただいた方はありがとうございます。 これまでの記事は下記のまとめよりお読みください。 2人の皇帝 モンゴル帝国の第4代大ハーン(皇帝)・モンケは南宋攻略の戦地で没した。留守を任されていたモンケ旧臣や后たちが後継者に推したのはモンケと母を同じくする四兄弟の末弟アリクブケであった。彼らがアリクブケを推したのは、アリクブケが首都カラコルム

          【異国合戦(13)】帝位継承戦争

          【異国合戦(12)】フビライの南宋侵攻

          今回は前回書いたフレグの西征と同時進行で進められたフビライの南宋侵攻について。 前回記事は下記よりどうぞ。 これまでの記事は下記のまとめよりお読みください。 フビライ、登場 1251年、モンゴル帝国の第4代皇帝(大ハーン)に即位したモンケ・ハーンは東方と西方、二正面の軍事作戦を企図した。西方遠征を任されたのが皇帝モンケの弟で後にフレグ・ウルス(イル・ハン国)の祖となるフレグであった。フレグの西征については前回記事参照。  そして東方、つまりは中華世界の攻略を任されたのが

          【異国合戦(12)】フビライの南宋侵攻

          【異国合戦(11)】フレグの西征

          今回はモンゴルパートになります。 内容としては第7回の続きですね。 日本パートも含め、過去の記事は下記よりお読みください。 フレグの西征 1251年、第4代皇帝(大ハーン)にモンケ・ハーンが即位した。モンケは初めてのトルイ家出身の皇帝であり、チンギス・ハン孫世代の長老格であるジョチ家のバトゥが後見した。    モンケの即位により、チンギス・ハン死後の政治を主導したオゴタイ家、チャガタイ家は力を大きく削がれ、モンゴル帝国は2代皇帝オゴデイ崩御以来の10年にわたる混乱に終止符

          【異国合戦(11)】フレグの西征

          【異国合戦(10)】日蓮の「立正安国論」

          連載第10回。 夏休みがあって少し更新期間が空きました。 失礼しました。 前回記事は下記よりお読みください。 これまでの記事は下記のまとめよりお読みください。 日蓮による「立正安国論」上呈 前回触れた通り、康元元年(1256)に幕府の執権は北条時頼から赤橋長時へと交代したが、幕政の実権は北条宗家の家督(=得宗)である時頼が握り続けた。これは政治的実力において、表向きは一御家人にすぎない北条家の家長の地位が執権という幕府の公職を超越することを意味した。  この事実は当時の

          【異国合戦(10)】日蓮の「立正安国論」

          【異国合戦(9)】鎌倉幕府、新時代へ

           連載第9回。  前回記事は下記よりお読みください。 これまでの記事は下記のまとめよりお読みください。 宗尊親王の下向 建長4年(1252)4月1日、幕府は6代将軍宗尊親王を鎌倉に迎えた。親王の父は後嵯峨上皇、母は平棟子。母の実家は桓武平氏であるが、平清盛ら武家平氏とは別系統の家門である。棟子は大変な美人で後嵯峨上皇のお気に入りだったらしい。  仁治3年(1242)生まれの親王は10歳で鎌倉へと下向した。この頃の皇室は、皇位継承と無縁の皇子は出家の上で大寺院を継承させるの

          【異国合戦(9)】鎌倉幕府、新時代へ

          【異国合戦(8)】北条時宗の誕生、そして摂家将軍の終焉

          今回から再び日本史パート。 前回記事は下記のとおり。 日本史パートとしては第3回の続きとなります。 得宗家待望の嫡男 建長3年(1251)5月15日、後に執権として蒙古襲来を迎え撃つ北条時宗は鎌倉に生まれた。幼名を正寿という。父は5代執権北条時頼、母は連署北条重時の娘である。  つまりは北条一門の老若以下、数えられないほど人々が集まる大変にめでたいことであったと『吾妻鏡』伝えている。  北条時頼は既に長男となる男子をもうけていたが、側室の子の庶子であり、時宗は待望の正室

          【異国合戦(8)】北条時宗の誕生、そして摂家将軍の終焉

          【異国合戦(7)】モンケ・ハーンの即位とフビライの登場

          前回はモンゴル帝国によるルーシ・東欧侵攻について書きました。  今回は2代皇帝オゴタイ崩御後のモンゴルについて。 ドレゲネの幸運 1241年12月11日、モンゴル帝国2代皇帝(大ハーン)のオゴタイ・ハーンが急死する。  オゴタイの死後、帝国の権力を握ったのは第6皇后のドレゲネであった。モンゴル帝国の最高議決機関クリルタイは女性の出席を認めており、皇后と宮廷の女性たちは政治に近い立場にあった。しかし、その上で第6皇后にすぎないドレゲネが政治を主導するに至ったのは様々な偶然が

          【異国合戦(7)】モンケ・ハーンの即位とフビライの登場

          【異国合戦(6)】バトゥの西征——モンゴルのルーシ・東欧侵攻

           モンゴル帝国の話が続きます。  西へと進撃するモンゴル帝国軍。  前回の記事は下記よりどうぞ。 ルーシ侵攻 前回記事で書いた南宋侵攻と同時に決断され、実行されたのが有名なロシア・東欧遠征である。「バトゥの西征」としても知られるとおり、この遠征の総司令官はチンギス・ハンの長男ジョチの次男であるバトゥが務めた。  ジョチがチンギス・ハンより先に他界したことでその後継者争いと無縁であり、遊牧地が帝国の最も西側で金国との戦争にも加わらなかったことから長く帝国の政治の中心からは

          【異国合戦(6)】バトゥの西征——モンゴルのルーシ・東欧侵攻

          【異国合戦(5)】オゴタイ・ハーンの帝国建設と中華世界との対峙

           今回もモンゴル帝国の話。  チンギス・ハンの崩御によって第2代皇帝の時代へ。  前回の記事は下記よりどうぞ。 オゴタイとトルイ チンギス・ハンの崩御から2年が経った1229年、帝国の最高議決機関クリルタイが開催され、チンギスの三男であるオゴタイが第2代皇帝(大ハーン)に選ばれた。チンギス・ハンが生前、皇子たちの中で温厚なオゴタイを後継者に望んだという。  なお、オゴタイは遊牧民の古の称号に由来する「ハーン」を称した。これはチンギスが使用した「ハン」とは完全に異なるもので

          【異国合戦(5)】オゴタイ・ハーンの帝国建設と中華世界との対峙