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【異国合戦(11)】フレグの西征

今回はモンゴルパートになります。
内容としては第7回の続きですね。

日本パートも含め、過去の記事は下記よりお読みください。


フレグの西征

 1251年、第4代皇帝(大ハーン)にモンケ・ハーンが即位した。モンケは初めてのトルイ家出身の皇帝であり、チンギス・ハン孫世代の長老格であるジョチ家のバトゥが後見した。  
 モンケの即位により、チンギス・ハン死後の政治を主導したオゴタイ家、チャガタイ家は力を大きく削がれ、モンゴル帝国は2代皇帝オゴデイ崩御以来の10年にわたる混乱に終止符が打たれた。
 政治の安定により、戦争が可能になる。モンゴルは再び征服戦争に打って出る。
 
 皇帝モンケは東西二正面の戦争を企図するが、それぞれの指揮官には血を分けた同母弟を充てた。宿敵・南宋との戦争を担当する東方はフビライが、そして中東方面の西征軍はモンケが任された。
 フレグの西征軍は1253年にモンゴル高原を発ったが、その征服の目的は判然としない。軍勢の規模は、かつてのバトゥの東欧・ルーシ侵攻軍に劣らぬ大掛かりなものであり、イランを抜けてアラブ世界へ侵攻する予定であったか、さらには地中海から欧州へ侵攻することも企図されていたかもしれない。
 とにかく最初の目的はイランの平定であり、ニザール派の「暗殺教団」が最初の標的となった。

イランへと向かうフレグ(『集史』パリ写本)

ニザール派の暗殺教団

 暗殺教団とその始祖ハサン・サッバーフについては歴史教科書にはほとんど登場しないけれども、「Fate」や「アサシンクリード」といったゲームや映画、漫画等に登場することでその存在を知る人は少なくないだろう。
 ニザール派は、イスラム教シーア派の分派であるイスマーイール派から派生した一派であり、11世紀以降、イランからシリアにかけて複数の山岳要塞を構築し、宗教集団を越えた勢力を誇った。刺客による暗殺技術に優れたことで「暗殺教団」と呼ばれ、イスラム教他派、十字軍、モンゴル帝国と分け隔てなくその標的とされたという。
 チンギス・ハンの時代、教団の教主ハサン3世は臣従の使者を送っており、教団とモンゴル帝国は協調的であった。しかし、モンゴルがイランへの支配を強める中で次第に敵対的となり、この頃には教団はイランにおけるほぼ唯一の反モンゴル勢力であった。
 フレグ西征軍の進軍速度は非常にゆっくりとしたものであった。諸勢力、諸王朝の新皇帝への忠誠を確かめつつ、地域の安定を図りながら西へ西へと軍を進めた。
 チャガタイ家、ジョチ家からの援兵も組み込み、大軍勢となったフレグ西征軍がイランへと入ったのは出陣から2年以上が経過した1256年1月1日のことであった。
 その直前には「暗殺教団」で政変があり、教主のムハンマド3世が殺害され、息子のフルシャーが後を継いでいた。対モンゴルの路線対立が原因だったとされる。事実、対モンゴル強硬派だった父とは異なり、フルシャーはモンゴルとの交渉を望んだ。
 交渉を望むフルシャーに対し、フレグは狡猾だった。交渉に応じる構えを見せつつ、教団の山岳要塞群への包囲網をじわりじわりと狭めていった。教団側は要塞の一部破却、人質の提出などでモンゴルの侵攻を乗り切ろうとしたが、フレグはより一層の譲歩を迫り、教団を揺さぶった。降雪があれば最強のモンゴル軍といえども山岳要塞の攻略は事実上不可能となる。交渉は双方にとって時間との戦いでもあった。
 そして、降雪を前に攻勢の準備が整うとフレグは無条件降伏を求める最後通牒を出し、戦闘を開始した。一部で教団側も戦果を挙げたが、モンゴル帝国の侵攻を止めるようなものとはならなかった。
 1256年11月27日、教主フルシャーは居城マイムーン・ディズを開城し、降伏した。フルシャーの呼びかけで、難攻不落に思われた教団の山岳要塞は次々と開城した。暗殺という闘争手段でイスラム諸勢力に忌み嫌われ、十字軍を震え上がらせた暗殺教団はモンゴルのイラン侵攻から1年をまたずに降伏に追いやられた。この事実はイスラム世界と欧州に再びモンゴルの恐怖を印象付けるものであった。
 教主フルシャーは丁重に扱われ、自らの希望で皇帝モンケのいるカラコルムへと向かった。しかし、モンケはフルシャーの面会を拒絶した。かつて教団が皇帝暗殺を企んだこと、残党がなお抵抗を続けていたことなどがその理由ともいわれる。失意のフルシャーはイランへの帰路で護送に当たるモンゴル兵によって殺害された。フルシャー殺害の報を聞いたフレグはイランにとどまっていたフルシャーの一門を皆殺しにしたという。 

アッバース朝の滅亡

 イランを完全制圧したフレグの西征軍はイラク方面へと侵攻する。ムハンマド死後のイスラム社会の最高権威であるカリフが治めるアッバース朝にモンゴル帝国の牙が突き立てられた。
 37代カリフであるムスタースィムはプライドが高く、自信家であった。宰相がモンゴル侵攻の危機を訴えても真面目に戦争に備えておらず、カリフが治める歴史あるアッバース朝の軍が敗れることを考えもしなかった。防戦は非現実的と考える配下が降伏をムスタースィムに納得させることは不可能であり、アッバース朝は勝ち目のない戦いに突入せざるを得なかった。
 自信家であるムスタースィムに対し、フレグはあくまでも慎重であった。圧倒的優勢にありながらも調略により血を流すことなくアッバース朝の戦力を切り崩していった。
 1258年1月29日、モンゴル軍はついに首都バグダードへの攻撃を開始。アッバース朝は最後まで有効な反撃を行えず2月10日に降伏する。これにより37代500年続いたアッバース朝は滅亡し、栄華を誇ったバグダードは破壊、虐殺、強姦の舞台となった。カリフとその息子たちも処刑された。

バグダードを包囲するモンゴル軍(『集史』パリ写本)

西征の終焉

 イスラム社会で最も恐れられた暗殺教団と最高権威であったアッバース朝を立て続けに駆逐したフレグ西征軍には勢いがあったし、多くの人に無敵のように思われたことであろう。アラブ、西アジアの諸国の軍勢が次々と幕下に加わった。
 その中にはキリスト教の十字軍の部隊もあった。モンゴル軍への参加は教皇の破門を招く行為であったが、彼らにとっては生き残りと対イスラム勢力のための一つの選択であった。
 アゼルバイジャンでの休息を経たフレグ西征軍は1260年シリア侵攻を開始する。シリアを治めるアイユーブ朝はマムルーク朝の勃興によるエジプトの失陥、王族の権力分立などの要因により最盛期の力は最早なく、ダマスカスの領主ナースィルは仇敵マムルーク朝との同盟を選択せざるを得なかった。ナースィルは勇敢にもモンゴル軍に挑むが、敗れて捕虜となる。
 1260年2月、難攻不落の堅城といわれたアレッポが陥落。シリア侵攻もこれまで通り難なく成功すると思われた矢先、フレグの西征は突然終わりを迎える。
 兄である皇帝モンケ崩御の報がアレッポの本営に届けられたのであった。フレグはモンゴルへの帰還を目指すが、イランのタブリーズに達したとき、兄・フビライと弟のアリクブケの帝位継承戦争が始まったことを知り、モンゴル帰還を断念する。これは自身の帝位を諦めることと同義であった。フレグは以後、イランに留まり、遠征軍を従えたまま独自の勢力圏を築く。これにより「フレグ・ウルス」、あるいは「イル・ハン国」と呼ばれる政権が成立したとされる。
 シリアに残存した部隊はフレグ配下の将軍キト・ブカに率いられ、4月にダマスカスを陥落させるが、9月にマムルーク朝を相手とするアイン・ジャールートの戦いで敗れてしまう。以後、モンゴル軍がシリア以西に侵攻する機会は2度と訪れなかった。

その時日本では

 今回も同時期に日本に何があったかを年表にまとめます。(太字はモンゴルの出来事)。

1252年 宗尊親王が征夷大将軍となり、鎌倉下向。
1253年 フレグ西征軍がモンゴルを発つ
1256年 北条時頼が執権、北条重時が連署を辞す。
    「暗殺教団」が降伏
1257年 北条時宗が元服
1258年 バグダード陥落
1259年 大ハーン・モンケが崩御
1260年 フレグが撤退を開始
    日蓮が「立正安国論」を上程

第12回へつづく。


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