信州は、敗れざる者の国ではないかと思う。

信州の歴史は、どちらかと言えば、裏側や外縁部から歴史のメインストリームを眺めるような雰囲気であるが、たとえ、裏側や外縁部であっても歴史の核心に通じているところが、信州歴史の絶妙な魅力であろうか。
歴史を斜めに愉しむ視点として、とても面白い立ち位置にあると思う。
「信州の歴史を知れば日本の古代史が見えてくる」という噂から、前回は信州の古代史について語ってみたが、今回は、中古・中世の信州歴史のアンチテーゼっぷりを、愉しんでみることにしたい。
信州という土地には、隠れ潜むとか、幽閉されるとか、再起を期して決起するとか、どこか時代のアンチテーゼとしての人物が、多く見受けられるように思う。
諦めきれないなにかを抱えたワケアリの人たちが、歴史の転換点で身もだえするかのように噴き出してくる。
諦めない者は、決して敗れることはない。
敗北を認めないかぎり、敗北者ではない。
概念的にはそうであり、「信州の議論倒れ」という言葉が存在するくらいの土地柄であるから、信州にあっては、概念的に敗れていない者は、真の意味での敗北者ではないであろう。
建御名方神も、洩矢神も、木曽党も、真田一族も、真の意味においては敗れてはいない。
行動は屈服しても、信じ続けるかぎり、思想は決して敗れることはない。
肉体は滅びても、掲げ続けるかぎり、理想は決して敗れることはない。
そんなように考えさせてくれる信州の歴史が、私はとても好きである。
信州は、アンチテーゼなものを魂として残しつつも、決してそれを葬り去ろうとはしない、敗れざる者の国であると思うのだ。

 
平安時代の前半期は、平将門の乱が、信濃の地でも繰り広げられた。父・平国香を殺された平貞盛は、朝廷に将門の横暴を訴えようと信濃を抜けようとする。それを追撃した将門の軍は、上田市にあった国分寺あたりで追いつき、国分寺河原の戦いが行われた結果として信濃国分寺は焼失してしまう。将門の乱を勝利した平貞盛の養子が平維茂であるが、彼もまた信州にゆかりが深い。戸隠鬼無里の紅葉狩り伝説の、その主人公が平維茂である。平維茂によって退治されたという鬼女・紅葉は、鬼無里村では、貴女・紅葉(呉葉)として人々に愛されていて、紅葉の墓なるものも松厳禅寺や大昌寺などにひっそりと存在している。西島八重子「鬼無里の道」を聴きながら、墓参りにでも訪れれば感慨も深い。一説には、紅葉は伴大納言善男の血を引いているとも言われていて、信州と大伴氏(伴氏)の繋がりも想起させる。馬牧の経営で大伴氏の一族は信濃に入植し、本家の没落もあって姻戚にその祖を求めたのが滋野氏だという説がある。一説が生まれた理由としては、信州一帯に伴氏の失脚を快く思わない者たちがあったということであろう。

 
平安時代の後半期は、信州の山奥に匿われていた木曽義仲の、挙兵と没落に尽きるだろうか。木曽の姓を冠しているものの、義仲を支えた義仲四天王の地盤は、主に諏訪から伊那の地域にかけてであったと言われていて、さらに、上田から佐久あたりに広がっていた馬牧を経営していた滋野三家をも味方につけ、中南信にその地盤は広かったようだ。挙兵した城は上田市丸子町の依田城である。父の旧領であった西上野にも勢力を伸ばし、川中島あたりで横田河原合戦を戦い、鬼無里を通って倶利伽羅峠へと抜けて行ったのが義仲の通ったルートであり、考えていたよりも信濃国中に足跡を残していた。義仲の勝利に終わった倶利伽羅峠の戦いこそが、平家の命運を決定づけたもっとも重要な戦いであったという説に、自分も賛成である。その後、義経と鎌倉方が追撃していったのは、主力を失い気勢を削がれ、立て直しに苦しむ平家である。倶利伽羅峠こそ、天下分け目の決戦であったはずである。ほかには、兵乱によって荒れ果てた善光寺、北向観音、信濃国分寺を、源頼朝が復興させた伝承がそれぞれあるほか、小海町の松原湖には御家人・畠山重忠が来たという伝承が、信州には残っている。

 
鎌倉時代は、仏教が改革期を迎えた時代であり、それは信州においても、いや、善光寺のお膝元・信州だからこそ顕著に現れた。鎌倉仏教の重要人物、重源・法然・親鸞・一遍などが、次々と善光寺を訪れた。法然上人の法然堂・法然通り、親鸞聖人のお花松、一遍上人の妻戸台などが、今に伝わる。また、一遍の最初の踊り念仏は、佐久市の跡部地区と言われ、重要無形文化財として今に伝えられている。塩田北条氏の祖・北条義政は、モンゴル襲来・元寇の折り、フビライの使者を斬ろうとする執権・北条時宗に、和平の道もあると反対。その後、突如として善光寺に出奔、塩田平に隠棲する。この北条義政創建と伝えられるのが、上田市別所温泉地区に北向観音などと一緒に厳かにたたずんでいる、安楽寺国宝(裳階付き)八角三重塔である。この塔は、上田市の太陽信仰・レイラインの終点とも言われ、かつては大日如来が祀られていたという。太陽信仰から生まれた塔らしく、下から見上げたときの太陽を背にした八角三重塔の姿は、得も言われぬ神々しさを放っている。

 
南北朝時代においては、滅亡した鎌倉幕府の遺児・北条時行を匿っていたのが、諏訪照雲頼重であった。北条時行と諏訪照雲は、鎌倉幕府の再興を御旗に中先代の乱を戦うが、諏訪照雲は討たれ、中先代・時行も南朝方に合流するなどして、戦乱の中にうやむやになっていったようである。諏訪大社・上社前宮には、この諏訪照雲頼重の供養塔がひっそりとたたずむ。数年前までは、立ち止まって興味を示す人もあまりいない、知る人ぞ知るディープスポットだったはずなのに、昨今では、北条時行を主人公とした「逃げ上手の若君」という漫画の影響もあって、若干注目されるようになってきているそうだ。私自身、最初に訪れたときには、立て看板の説明書きを見て「へぇ、そうなんだ」程度にしか思わなかったものの、信州の歴史を通史で考えるようになってからは、供養塔の前に立つと少し感慨深いものを感じてしまう。せっかくなので、今度、「逃げ上手の若君」を読んでみようかと思っている。

 
戦国時代は、戦国の両雄・武田信玄と上杉謙信が対峙した川中島があまりにも有名であるが、長野市立博物館の論調には、戦場となってしまったがゆえの批評的精神とリアリティを感じさせる部分がある。戦場での略奪や人買いなどの闇の部分を取り上げるなどして、両手放しで両雄を褒めちぎるようなことはしないからだ。考えてみれば、武田も上杉も信州にとっては部外者であるから、どちらを支持するにしても忸怩たる思いに違いない。戦国期の信州地元の英雄としては、真田氏を置いてほかにはないが、それでも全県的な地元の英雄というわけではなく、やはり中心は上田市である。滋野三氏から出てきたとされる真田氏であるが、山岳修験や忍びとの関わりもあり、なかなか深みがあっていろいろな意味で面白い存在だ。面白いと言えば、信玄を二度破った男・村上義清の存在も面白い。坂城町では地元の英雄でもあり、坂城町は、戦国期の真田氏の拠点であった上田市と、江戸期の真田氏の拠点であった長野市松代町に挟まれる形となっているものの、武田や真田に呑まれることなく頑張っているのが頼もしい。村上氏や真田氏の持ち城は、峻厳なまでの山城が多くて、北東北育ちの私は平山城ぐらいしか目にして来なかったため、その山城の本気度ぶりには、思わず身震いをしてしまう。近づく者を拒む山城の峻厳な存在感は、やはり格別だ。尾根筋を利用した砥石城・岩櫃城(上州)、河岸段丘を利用した上田城・沼田城(上州)、また、山本勘助の縄張りと伝わる小諸城・高遠城など、本当に惚れ惚れとしてしまう。天守建築としては、国宝・松本城が控えている。落城の折りに自刃するための間である御座所が設けられていることと、酒を呑み月を愛でるなど余興を愉しむ場所である月見櫓が附け加えられていることが、生と死の交錯する城といった趣きであり、松本城天守はとても美しいと思う。信州の城郭は、まったくもって穴のない布陣である。

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