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青年団第94回公演『ソウル市民』

《Day Critique》163

青年団第94回公演
『ソウル市民』
作・演出:平田オリザ
@こまばアゴラ劇場(2023年4月15日15時の回)

 『ソウル市民』は、1994年初演の『東京ノート』より先立つこと5年、1989年に初演された青年団の初期代表作。作・演出の平田オリザは、今回の当日パンフに以下のような文章を寄せている。

「『ソウル市民』は1989年に初演された作品です。当時、私たちは、いまの「現代口語演劇」の骨格となる方法論を発見し、しかしそれがどんな意味を持つのかもわからずにいました。この作品を書くことで、どうにか「あぁ、この方法論は、こういうことを描くのに適しているのだな」と実感を持つことができました」

 平田と青年団が作り上げ、その後広く日本の演劇界に普及した「現代口語演劇」とは、広義には現代の日本人の普通の言葉づかいで演劇を上演する、というセリフと発話に関する方法論を指す。しかし平田の作る劇は、さらに場所を一場に限定し、上演と同じ長さを持つある時間のできごとを描くという、厳密に形式主義的な方法論を採っている。平田はこの現代口語演劇によって、舞台上に社会の縮図を再現し、そこにある問題を可視化する。

 本作の時代設定は日韓併合を翌年に控えた1909年。当時すでに日本は韓国の外交・内政権を奪取し、保護国化していた。同年7月には韓国の併合が閣議決定を通じて広く国民に知らされており、10月になると初代韓国総監伊藤博文が暗殺される。舞台上の登場人物たちのセリフから、本作はおそらくこの7月の閣議決定から伊藤暗殺までのどこかの一日を描いたものだと思われる。

 場所は韓国・ソウルで文房具店を営む篠崎家の食堂。ここでは女中たちと一家の人間がともにお茶を飲み、談笑するのみならず、長男が朝鮮人の女中と駆け落ちしたりもする。当時としてはかなり進歩的な感覚を持った篠崎家の人々は、自分たちが人道的でまともだという自負も持っているらしいが、そこにこそ見えない抑圧の種がひそんでいる。たとえばヒューマニズムを唱える文学好きの長女は、日本人も朝鮮人も同じ人間だが、朝鮮語は文学に向かないためいまだ朝鮮文学は芽生えていないのだと言う。また朝鮮で生まれ育った叔父は、朝鮮人がタコを食べるかどうかさえも知らない。確か10年後を舞台に同じ篠崎家の人々を描いた『ソウル市民1919』のセリフだったと思うが、日韓併合で日本人になれて朝鮮人も幸せなはずだ、といったことさえ彼らは口にする。ソウルに住む普通の日本人である彼らは驚くほど朝鮮に関して無知で、想像力に欠けているのだ。そしてこの無知と想像力の欠如によって抑圧は肯定される。

 平田は2018年に行われたインタビューで、次のように発言している。

「『ソウル市民』の初演時に、たくさんの資料にあたりましたが、1909年の時点で、いちばん植民地支配に抵抗していたのは伊藤博文でした。(中略)一方で、日本の中でも最も植民地支配に賛成していたのは庶民です。理由は非常に単純で、日露戦争に勝って日本も一等国になったのだから、植民地のひとつや二つ持って当たり前だという世論の雰囲気があったからです」(「アイホール」のHPに掲載されている「平田オリザインタビュー」より)

 平田の考えでは、韓国の植民地化をなしたのは政治や思想ではなく、市民が作る「雰囲気」だというのだ。ここに、『ソウル市民』はじめ平田の登場人物の多くが、どこにでもいる普通の人々に設定されている理由がある。現代口語演劇は、普通の人々の普通の2時間という「点」に時空間を限定することによって、庶民が生きる社会全体を縮約し、そこにある問題の構造を抽出する。さらに、舞台上ではあくまで具体的なセリフしか発されないが、登場人物たちの半径5mを超える広い社会の情報は注意深く選別され、いつの時代のどの場所にも当てはまるように見せている。今回の上演に触れて、ウクライナ侵攻を支持するロシアの素朴な市民の姿を想起した観客も多いのではないか。

 ところで、大阪でひとり暮らしをする73歳の私の母は、毎日何本も韓国ドラマを見る相当な韓流ファンである。しかしここ数年、嫌韓的な発言が目立つようになった。あれだけ韓国の文化に触れながら「韓国人はなんでも日本のせいにする」「いじきたない」と口にする母に、私は不気味ささえ感じるし、母からそういう言葉を聞くたびにとても悲しい気持ちになる。二十数年前、私が大学に合格して上京することになったとき、母は私を鶴橋のコリアンタウンに連れて行ってくれて、親子ふたりで韓国焼き肉を食べた。そのことは私の中で美しい思い出になっている。そんな母が嫌韓思想、というより空気のような差別意識を持つに至った原因は、十中八九、関西の下劣なワイドショーだ。それは帰省するたびに定点観測的に関西ローカルの番組を見ているとよくわかる。排外主義的政策を掲げる維新のバカがテレビで威勢のいいことを言っているのを見ると、局ごと爆破してやりたくなる。

 こうして私の母が嫌韓的な発言をするようになったのも、ロシアの素朴な市民が戦争を支持していることも、篠崎家の人々が韓国の植民地化を肯定していることも、根っこにある問題の構造は同じである。彼らがそれを使って話し、考えている「言葉」そのものが、差別と抑圧の構造をはらんでいる。その言葉を使う限り――つまりその構造の中で生きる限り、彼らには自分の置かれた構造の全体像が見えない。だから差別や抑圧はやっかいなのだ。そしてこの構造を再生産し続けているのがメディアであることは、『ソウル市民』の時代から変わらない。平田は、「夏目漱石の連載を読みたい」という書生のために篠崎家がまた新しい新聞を日本から取り寄せる、といったくだりをさり気なく挿入することによって、ソウルに暮らす彼らが得る内地の情報、もっと言えば彼らの話す日本語そのものが、日本の新聞や本によって形成されていることを示す。こうしてメディアを通じて普及し、普通の人たちが使う普通の言葉になったもの――「現代口語」こそが、いまや問題となる。この現代口語を舞台に上げることによって相対化/客体化することが、平田オリザと青年団の発明した現代口語演劇の要諦なのだ。

 これを確認した上で、今回の上演を観て新鮮に感じたのは、セリフまわしの質が微妙に変質していることだ。これは2018年版まで長く出演してきた山内健司や松田弘子が役を降り、その他の配役もガラッと変わったことが大きい。山内に代わって一家の当主を務める永井秀樹の演技は、山内より癖がなく、前回次女役を務めていた井上みなみと交代した名古屋愛の喋り方も、よりぼそぼそとしたものになっている。つまり全体的に、今風の抑揚のない発話に近づいているのだ。想田和弘が平田を追ったドキュメンタリー映画『演劇Ⅰ』などを見ると、青年団の稽古では「0.5秒早く」とか「(セリフの)頭にイントネーションを置いて」など、かなり細かくセリフの読み方が指示されるようだ。青年団の役者いわく、平田は「音楽みたいに」セリフを聞き、演出をするという。この長い間劇団を特徴づけてきた平田流の発話が、どういうわけか今回の上演では微妙に緩んでいる。そしてその微妙に変質し、2020年代風になったセリフまわしでも、まったく違和感なくこの30年以上前の作品を受け入れることができたのは驚きだった。極端なことを言えば、平田の戯曲を濱口竜介の演出で見てみたい、といったことも思うのだった。

(2023年4月16日記)

※トップ画像は青年団公式Xより転載

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