書くことの自己陶酔と自己嫌悪

佐々木中と田中宗一郎。このふたりはいま僕が「この人の文章を読みたい」と思う人たちである。
作品を読みたい、というのとは少し違う。ふたりは哲学者と音楽ライターであるが、とにかく文体がかっこいい。佐々木中は著作『切りとれ、あの祈る手を』で、ただこれはインタビュー形式の本であるので、実質初めて文章に触れたのは京都精華大学准教授就任の際の、自己紹介文だった。そして田中宗一郎はウェブサイト「サインマガジン」での、ケンドリック・ラマー『トゥ・ピンプ・ア・バタフライ』のレビューで。どちらも今まで触れたことのない、切れ味鋭い文章だった。
ただ、田中宗一郎には単行本などはない。彼の昔の文章に触れるためには、彼が7年前まで編集長を務めていた雑誌『SNOOZER』くらいしかない。が、これもなかなか今は手に入りにくい。
佐々木中もここ2年ほどは著作を出しておらず(無論これは贅沢な物言いだと思うが)、昔やっていたらしいブログも現存していない。なんにせよ僕は知るのが遅いということだ。ただまぁそうは言っても、ないとなると余計に読みたい欲求は高まってしまうものだ。
僕も一応習慣的に文章を書いているため、上のふたりや、その他何人もの書き手の文体を真似したことは何度もある。しかし当然ながら、彼らの文章は膨大な知識量と文章量に裏打ちされた、苦しみの中からひねり出されたものである。真似しようとしても、出来上がるのは悲惨で小っ恥ずかしいものにしかならないのである。
もちろん、あらゆる表現は模倣から出発する。継続する意欲という意味でも、好きな文章、かっこいい文章を真似てみるのは大切なことだ。
ただ、かっこいい文章が「いい文章」とは限らない。一概には言えないが、その人の特徴が表れている文章はそれだけクセがある。それは佐々木中や田中宗一郎も同じ。
彼らはうまい。しかしそのうまさとは、単なる教科書的な作文作法という意味でのうまさではない。もちろんそういった基礎を踏まえてではあるが、そこからさらに上乗せされたその人特有のうまさ、ということである。それは時に「悪文」と呼ばれたりする。例えば谷崎潤一郎の小説における長い長いワンセンテンスが、これから文章を書こうとする人への良い手引きにはならない、というように。
とはいえ、自分の尊敬する書き手の文章を読むと、書きたくなるのも無理からぬ話で、またそういう時には普段と違って割とスラスラ書けてしまうのだ、「それっぽい」文章が。
しかし、繰り返すように、彼らと自分とでは積み上げてきた知識や年月がまるで違うわけで、その時はうまく書けて悦に入っても、翌日に読み返すとなんともひどい。
これと関連すると思うが、中井久夫は「私の日本語作法」※の中で「ぜひ使いたい名文章が浮かんでも、恰好のはめこみ場所がなかったら容赦なく切り捨てることです」と書いている。「名文章」というのは、この場合一行もしくはひと段落といった短い文だろう。そういう文が本当に素晴らしいものかどうかは別として(だいたいは大したことないのだが)、一度自分で名文だと思ってしまったら、使いたくなってしまうのが人情である。そしてそれを使いたいがあまり、全体のバランスが狂ってしまうのはよくあることだ。
僕にもそういった「名文章」の体験は何度かある。しかも時に一文ではなく、ひとつの作品として。
しかしその体験のほとんどは、初めて書いた作品、まだ一度も推敲などしていない文章によって得られる。そして翌日に読めばさきほどの「それっぽい」文章と同じように、駄文にしか見えなくなる。つまり、たいした力量もないのにスラスラ書けてしまっても、それは酒に酔ったようなその場の勢いの産物でしかないのである、少なくとも僕の場合は。だからこそ、何度でも書き直すという作業が必要になる。 簡単に得られる達成感は、そのぶんすぐに冷めてしまうのだ。
また、文章には引用という技術がある。小説、論文、詩、あらゆる形式の作品から一部分を抜き出し、自分の文章に組み込む。それによって論理を補強したり、根拠を明確にする、便利なものだ。
ただ、便利なぶんこれにも落とし穴がある。良い文章、自分の言いたいことをわかりやすく説明してある文章などは、どんどん使いたくなる。しかもそれらは真似ではなくてあくまで本物なので、あとで読み返して恥ずかしくなる、なんてことはない。おまけに自分の文の中にかっこいい文章なんか組み込んでいると、それがまるで自分のものであるかのように思えてくる時すらある。要するに楽に陶酔感を味わえるわけだ。
が、引用に頼りすぎると、結局全体として何が言いたいのか、果ては自分の主張がまるでない、なんて現象が起こる。僕自身、この失敗をゼミの教授などに何度も指摘された。引用するのはいいが、その部分が投げっぱなしになって前後の脈絡が掴めないとか、君は引用することによって単に自分の知識をひけらかしたいだけじゃないのか、とか。
ここまで何人かの作家の名前を挙げたり、引用もしたが、それはこういった指摘に対する反省の意味もあるのである。引用が自分にとって必要最低限のものにちゃんとなっているか。単なる「俺はこんなに知ってんだぜ」アピールで終わってないか。あの時の僕への指摘は的確であったし、やはりそのことに気づいたあとに読み返した引用だらけの文章は、なんとも恥ずかしいものだったから。
このように僕にとって書くという行為は、自己陶酔と自己嫌悪を繰り返すものである。たぶん中二病と似ている。安易に真似てみては、あとで恥ずかしさが襲ってくる、という具合に。
もちろん表現である以上、恥かいてナンボという部分はあるのだが、そこに後悔が生まれてしまったら、結局それは失敗なのである。
だからこそ、知識も技量もない僕は、後悔がなくなるまで繰り返し繰り返し書き直すしかない。自己陶酔と自己嫌悪を行き来して、そこからわずかなものをしぼり出すしかないのである。佐々木中や田中宗一郎「みたいな」ものは書けるかもしれないけど彼らにはなれないのだから。
書く、書き直すということ。それは永久に終わらない作業なのだろう。そして、それでいいのである。簡単に「完璧な文章」が書けて、もう書くことなんてない、なんてことになったらそのほうが困る。書くこと、それを「人生の習慣」にしていく限り、そこに後悔はないはずである。
※「中井久夫集2 家族の表象 1983-1987」みすず書房, 2017, 157p



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