誰もいない、誰もいはしない。冬だ。冬の朝の街には誰もいず、僕は背中を丸めて歩いている。
風は冷たい。春のそれのような喜びはなく
、夏の爽やかさもない。誰もそれを歓迎しない。だが、恨むこともない。ただただ、通り過ぎるのを待つだけだ。
そして僕は、風と共に通り過ぎていく日々を、切実に感じている。冬の朝を歩くと、そんなことを思う。

風を感じながら、この街で過ごした短くはない年月と、そこで見た景色を思い出す。それは美しい。しかし空虚だ。街の思い出、思い出の景色。それらは「何もない」という思い出だ。
8年ほど前に僕は京都に移ってきた。知り合いもおらず、お金もない。住み始めたときにあったのは時間だけだった。
だから僕は近所をぐるぐる歩いて廻った。けれども具体的な場所は思い出せない。せっかく京都にやってきたというのに、歩いて行ける距離にもそれはあったというのに、僕はいわゆる名所にはまったく赴かなかった。人混みが苦手とか、単に出不精であるとかそんな面白くもない理由で(散歩が好きなのと出不精なのは矛盾するんだろうか?)。
そんな僕の思い出の中にある景色は、だからぼんやりとしている。具体的な年月日とか、エピソードとかがない。ただ、遠くから見るもの、ぼんやりとしたものは、いい意味でも悪い意味でも、大抵美しく見える。曖昧な街の景色には、過ぎ去った時間が澱のように重なり、それが記憶を美しくしていく。いつか見た夕焼けとか、どこかを歩きながら聴いた音楽とか。

僕はここ数年、連れ合いに連れられて、京都の名所をいくつも見て廻った。それらは具体的で、楽しい思い出だ。
過去を振り返って、そこに嬉しいとか楽しいとか悲しいとかいう感情がはっきり自覚されるとき、それは全て人との出会いや別れの記憶だ。ぼんやりとした景色の中で孤独を感じている僕の思い出には、他人は存在しない。それは郷愁というものなんだろうか。先にも書いたように、僕は京都に移り住んで8年が経つ。それは決して短い時間ではなかった。けれども、郷愁と呼ぶには短すぎるような気もする。

僕が住んでいる京都の一角は、大きい街ではない。車はいらないし、電車にだって乗る必要もほとんどない。歩くか自転車で事足りてしまう。どこの道に何があるか、ということもそれなりに答えられる。大抵が、いつか歩いた道、いつも歩いている道だ。
その「いつも」は、いつか変わっていくかもしれない。いま、僕が冬の朝に背を丸めて歩いている道は、いつも歩いている道だ。ここも、やがては形を少しずつ変えていくだろう。そして僕もまた、どこかへ移り住むかもしれない。そうやって、また新しい「いつも」は作られていく。
そして、新しい道もきっと、ぼんやりとしたレンズの向こうに生まれていくだろう。それでいい。僕はまたブラブラ歩き出すだろう。いつか通り過ぎた道を思い、好きな歌でも歌って、四季の風を感じながら。



#エッセイ #冬 #生活 #京都

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