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ラテンアメリカ映画

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最近になってようやくラテンアメリカ映画の魅力に気付いたので、こまめに更新する予定です。あくまで予定ですが。
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記事一覧

ネルソン・カルロ・デ・ロス・サントス・アリアス『Pepe』ドミニカ共和国、カバのペペの残留思念が語る物語

2024年ベルリン映画祭コンペ部門選出作品。ネルソン・カルロ・デ・ロス・サントス・アリアス長編四作目。1993年、脱獄し潜伏中だった麻薬王パブロ・エスコバルはコロンビア国家警察の特殊部隊との銃撃戦の末に死亡した。彼は自身の私有地であるアシエンダ・ナポレスの裏庭にある人工湖で4頭のカバを飼っていたが、死亡後は放し飼いとなって天敵の居ない環境で繁殖し続け、現在では200頭近くまで増え、地元の漁師から脅威として認識されている。コカインヒポと呼ばれているらしい。その中で群れから分かれ

ホアキン・ペドロ・デ・アンドラーデ『The Priest and the Girl』ブラジル、悪魔の遣わせた聖人或いはメンヘラ製造機

1966年ベルリン映画祭コンペ部門選出作品。ホアキン・ペドロ・デ・アンドラーデ長編一作目。カルロス・ドラモンド・デ・アンドラーデによる同名詩に基づく。ディアマンティーナ近郊の山岳地帯にある朽ち果てたダイヤモンド鉱山の鉱夫村に、危篤状態にある老齢のアントニオ神父の最期を看取るために若い神父がやって来た。宗教に熱心な老女たち以外の村人は活気がなく、村全体も死に体という中で、若い神父はマリアナという少女に出会う。10歳のときに裕福な商人オノラトに預けられて育てられたという彼女は、今

Paulo César Saraceni『Porto das Caixas』ブラジル、夫を絶対殺すウーマンと化した妻の復讐

傑作。Paulo César Saraceni(パウロ・セーザル・サラチェーニ)長編一作目。脚本家ルシオ・カルドーソとの共作三部作の第一篇で、『郵便配達は二度ベルを鳴らす』の映画化作品。といっても前半部分の夫を殺すところまでを描いている。主人公イルマは常に凡愚で口煩い夫を殺害することを考え、そのためには手段を厭わない。特に序盤でブチギレてからは絶対殺すウーマンと化して、その沸き立つような殺意を隠そうともせず、使えそうな男たちをスカウトしては放流するを繰り返す。夫に渡された金で

マルタ・ロドリゲス&ホルヘ・シルバ『The Brickmakers』コロンビア、搾取されるレンガ職人一家の物語

マルタ・ロドリゲス&ホルヘ・シルバの通算二作目。当時、コロンビア政府は映画製作に一切の関心がなく、ドキュメンタリー映画の製作は夢のまた夢だった。そんな中でマルタ・ロドリゲスは社会学者/人類学者として社会から疎外された階級の搾取に関心を持ち、彼らの姿を映像に焼き付けることを信条に活動を続けてきた。1962年に渡仏して3年間滞在した彼女は、そこでジャン・ルーシュの映画と出会い大きな影響を受けた。帰国後は映画製作に乗り出すも身内を含めた誰からも援助を受けられず、唯一独学で写真家にな

Luis Figueroa / Eulogio Nishiyama / César Villanueva『Kukuli』ペルー、リャマ飼い少女の旅と祭

大傑作。初めて製作されたケチュア語映画。監督たちは1950年代から60年代にかけて活動したクスコ集団のメンバーである(彼らは後にホルヘ・サンヒネスらボリビアのウカマウ集団が活動する基礎を作った先駆者でもある)。彼らの活動の主な目的は、特定地域の問題を周知すること、非商業的な作品を作ることであり、本作品の完成によってどちらも達成された。その背景には、この当時、ペルー国民の約40%がケチュア語を話していたにも関わらず、政府は先住民の存在を認めようとしなかったという事実があるらしい

Nele Wohlatz『The Future Perfect』アルゼンチン、新言語習得のもたらす新たな可能性

大傑作。Nele Wohlatz単独長編一作目。シャオビンは両親に呼ばれてブエノスアイレスに来た内気な中国人の少女。冒頭ではスペイン語学校でのレッスンが描かれている。簡単な質問に答えるというレッスンだが、単語が聞き取れずに的外れな回答をしたり、何度も聞き返したりしている。精肉店でアルバイトを始めるが、客の注文を間違えまくり、同僚(?)からは"もっとスペイン語覚えてから来て"と言われてしまう。レストランに入ってもメニューが読めない、駅のホームでも立ち往生している。映画はそんな彼

リサンドロ・アロンソ『Eureka』白人社会に生きる先住民たちの年代記

リサンドロ・アロンソ長編六作目。前作『約束の地』はボロボロになったヴィゴ・モーテンセンが荒野を彷徨う静かな映画だったので、今回は疲れ果てているだろう釜山映画祭の〆に、言葉の少ない映画を持ってきたくて鑑賞。とても不順な動機だが心地よい映画だったので目的達成。本作品は三部構成で展開される。第一部はモノクロのアカデミー比画面で撮られた西部劇である。主人公マーフィはそこかしこで銃声のする治安の終わってる街にやって来た。何かを探しているようだ。サルーンではコロネルと名乗るボスの女に出会

クレベール・メンドンサ・フィリオ『Pictures of Ghosts』レシフェと私と映画館の歴史

2024年アカデミー国際長編映画賞ブラジル代表。クレーベル・メンドンサ・フィリオによる最新ドキュメンタリー。レシフェはブラジルの角の先端にある港湾都市であり、フィリオが40年来住んでいる故郷でもある。レシフェ南部のビーチにほど近いアパートに移り住んだ1970年代から、今に至るまでレシフェの街も自身のアパートも様々な表情を見せ、変わり続けてきた。本作品は三部構成で展開される。第一部ではフィリオの自宅があるボア・ビアジェン地区の変遷を辿る。フィリオの母親ジョゼリスは夫と別れて心機

Gastón Solnicki『Kékszakállú』アルゼンチン、少女たちの将来への不安

ガストン・ソルニツキ(Gastón Solnicki)長編劇映画一作目。バルトーク・ベーラ唯一のオペラ作品『青ひげ公の城』に緩く基づいている他、それをフリッツ・ラングがノワールに翻案した『扉の陰の秘密』にも影響を受けているらしい。バルトーク版ではペロー版やメーテルリンク版と異なり、主人公が扉を開けるタイミングで毎回青髭本人が付き添っており、怪物としてではなく一人の人間として青髭を描いている。あまり関連性は見いだせないが、ソルニツキ的に言わせてみれば原作と一致させることには興味

【ネタバレ】パブロ・ラライン『伯爵』チリ、ピノチェトから受け継がれ生き延びる負の遺産

2023年ヴェネツィア映画祭コンペ部門選出作品。パブロ・ラライン長編10作目。チリ軍事政権の独裁者アウグスト・ピノチェトは、実は御年250歳となる吸血鬼だった。フランスの孤児院で育ち、ルイ16世の国軍に入隊するも、フランス革命では王の味方をしなかった。処刑されたマリー・アントワネットに魅せられた彼は、あらゆる革命に反抗するためハイチやロシア、アルジェリアと世界中を回ることとなって100年、今度は王の居ない国で王となるため、1935年にチリに上陸した。そこから先は御存知の通り。

リラ・アヴィレス『Tótem』メキシコ、日常を演じようとする家族の悲しみ

大傑作。2023年ベルリン映画祭コンペ部門選出作品。2024年アカデミー国際長編映画賞メキシコ代表。リラ・アヴィレス(Lila Avilés)長編二作目。前作『The Chambermaid』も中々面白かったが、完全に忘れていたので反省。7歳の少女ソルは母親と共に、父トナの誕生パーティを祝うため、祖父の家にやって来た。トナは恐らく末期癌のようで、大人たち全員が"恐らく今回のパーティで最後になるだろう"と認識している。誰もそれを口には出さないが大人たちはピリついていて、家の中の

フィナ・トレス『追想のオリアナ』ベネズエラの"エル・スール"は女性の普遍的な戦いを描く

1985年カンヌ映画祭カメラドール受賞作、フィナ・トレス長編一作目。オリアナが亡くなった。その報を受けた姪のマリアは、幼少期に少しだけ滞在したオリアナの屋敷を相続したことを知って、フランスからベネズエラへと飛ぶ。結婚せずに田舎の館に引きこもり、現地人の召使と共に生活していたオリアナ。晩年には模様替えどころか掃除すらさせなかったほど過去に拘った屋敷で、オリアナは何を思って過ごしていたのか?過去と変わらない屋敷を歩き回るマリアは、つい先日のことのように滞在時の記憶を思い出す。そこ

ラウラ・チタレラ『Trenque Lauquen』謎が謎を深める街、トレンケ・ラウケン

大傑作。ラウラ・チタレラ長編四作目、単独では二作目。チタレラはマリアノ・ジナス、アレホ・モギランスキー、Agustín Mendilaharzuらと共に"El Pampero Cine"というアルゼンチン新世代を代表する映像制作グループ(会社?)に参加している。彼らはそれぞれが監督、プロデューサー、編集、DoP、俳優などを輪番で担当し、とてつもない速さで映画を撮りまくっているのだ。本作品ではチタレラが監督脚本、モギランスキーが編集、Mendilaharzuが撮影の一部を担当し

アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ『バルド、偽りの記録と一握りの真実』重症化したルベツキ病と成功した芸術家の苦悩

2022年ヴェネツィア映画祭コンペ部門選出作品。アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ長編七作目。今回のDoPはエマニュエル・ルベツキじゃなくてダリウス・コンジなのだが、コンジに失礼なんじゃないかというくらい似非ルベツキっぽい長回しとか視点の低い映像ばかりで困惑する。キュアロンも『ROMA』でルベツキを使えなかったとき、ルベツキからルベツキムーヴを習得して自分でカメラ回してたので、自分語りはルベツキで、という風潮でもあるんだろうか?荒野を走る男が空を飛ぶ影、出産直後に子宮に戻