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二重思考、言葉の規制で感情は支配される。


絶対に裏切らない自信を私たちは持ち続けることができるのだろうか。

忽然とデータから個人の情報が消えたとき、それでもなお、その人は存在していたと言えるのだろうか。


「わたし/ぼくの記憶に、彼/彼女は存在しているから」と・・・。


記憶は操作される。操作できる。

何処に真実があるのか、真実とは何か。支配された空間の中ではその答えを見つけることはできるのか?


知らずに同じ行動を繰り返す人々。

「空想」と「現実」で揺らぐ世界で生きる人間にもたらされるものとは・・・。



***



新国立劇場で上演中の『1984』を観に行きました。

最初は何が起こっているのかわからず、頭の中が整理できない居心地の悪さを感じながら観ていました。けれども、だんだんと劇中の圧迫感や感情の支配に観客である私までもがのまれていく感覚になり、引き込まれ夢中になって観てしまうほどに。


そして戯曲で「もっと知りたい」と珍しく思えた作品です。



この作品はジョージ・オーウェル氏原作の小説『1984年』をもとに

近年では、小栗旬さん主演舞台『RED』や生田斗真さんと菅田将暉さん共演作『ローゼンクランツとギルダンスターンは死んだ』など、数々の戯曲の手がける演出家小池絵里子さんが演出を手がけ

ミュージカル界では言わずと知れたプリンス俳優、今年は戯曲『黒蜥蜴』で明智小五郎を好演した井上芳雄さんが主演をする戯曲作です。


また小説『1984年』はアメリカの大統領のドナルド・トランプ氏が新大統領に就任したときにアメリカではかなり売れ、話題になった作品でもあります。

私はその事実は知らず原作も読んでいませんでしたが、もし米政権と『1984』の世界に共通点があるのだとしたら、独裁的すぎて政権のやり方に疑心感を抱きそうだなと。

実際のところは不勉強なため今語ることはありませんが、そんな独裁的なのでしょうか。

ちなみに原作は書店で手に取って意味もなくパラパラめくって、そっと棚に戻しました・・・!

読むのに根気が入りそうな量です。正直読みたいけど、活字不慣れが読破できるのでしょうか。舞台を観た後でも内容が詳細に書かれている気がしてすごく興味はあります。



(以下、私の記憶から書き出したもので出来るだけ見たままを書いていますが、台詞など事実とは異なる部分があります。

※ネタバレ多発注意

たぶん小説を読もうと思っている方でも小説が読む気がなくなるということはないと思います。主観入りまくり事件なので・・・。)



1984は、2050年の近未来の人々が、小説『1984年』とその附録「ニュースピークの諸原理」を読み、議論を交わす場面から始まり、やがて小説の世界の1984年に入り込んでいき、時折時代を交差させながら回想劇を繰り広げていきます。

1984年。オセアニアでは"ビックブラザー”を頂点とする党によって行動を監視され、言葉を制限させ、感情を操作された人々がいた。
舞台の中心は1950年代による核戦争以降、オセアニア、ユーラシア、イースタシアの3つの国に分割され、統治のために戦争が繰り返される1984年のオニアニア。

  彼らは党の理想に背くと拷問にかけられ、すべてがビックブラザーの名の下にあると教え込まれる。

ビッグブラザーは見ている。

テレスクリーンと呼ばれる街頭テレビと監視カメラを担う映像モニターによって、市民は24時間監視されているのだ。

 しかし、市民は反抗もしなければ欺瞞も抱かない。

 なぜか。市民は思考さえも支配されているからだ。2つの相反する疑問を同時に受け入れられるようにする二重思考によって。

 ある日のテレスクリーンからの「チョコレートの配給を20gに増量する」との報告では市民は喜び、独裁政権のトップ・ビックブラザーへの信頼を一層強くした。この報告が毎日同じようになされてることには気付かずに・・・。

 これこそが二重思考によって操作された世界。
そんな

「戦争は平和 自由は隷属 無知は力」

をスローガンに生きる市民の中にも、欺瞞を抱く者も居た。
 主人公ウィンストンは何処かここではない場所に自由があることを理解し、また自分の存在があること、真実がここにあるいう事実を未来に残すため、思想を書き記すことは違反行為と知りながら日記を書き続けた。それでも外が断絶された世界では、今が1984年で、それが真実だと言うことさえわからなくなっていく。

 2足す2が4であると言えることが自由なんだ。

 ウィンストンは言う。
そして党の中で唯一、愛をもって同じ意思を共有する恋人ジュリアとの出会いによって、彼はこの現実に背く決意をした。

 「絶対に君を裏切らない」

  二人は固い絆を交わす。変わらない日々にも愛を育むことで少しずつ日常は色づいていく。ビックブラザーが見ていることも知らずに・・・。


***


党に背いたウィンストンはジュリアと引き離され、党の上層部の手によって次々と拷問にかけられていった。指を切られ、歯を引き抜かれ、血で赤く染まり、体力も気力も奪われていく・・・。

 それでもウィンストンは自由への希望を捨てなかった。

 ついには脳へ電気ショックを与えられてしまう。強烈な刺激が全身を巡り、ウィンストンはもがき苦しんだ。身体を拘束された彼には逃げることも拒むことも許されない状況下で、党中枢の一員オブライエンは彼に4本の指を見せ、こう訊く。

 「これは何本にみえる?」

  ウィンストンが「4本」と明確な意思を持って言うと、再び電気ショックが与えられたのだ。それでも懸命に何度繰り返そうともウィンストンは自由を求め続けた。

 オブライエンは言う。

 「これを4本と言えることが自由かもしれない。しかしビックブラザーのあるこの場所で、これが5本であるならば、これ(2+2=5ということ)もまた自由と言えるのではないか。さあ、ウィンストン。これは何本だ?」

 「5本っ・・・。・・・!!!」

 「嘘を言ってはいけないよ。君はまだこれを4本だと思っている。もう一度訊く、これは何本?」

  繰り返される電気ショックに限界の近いウィンストン。

「もうわからない・・・。これは4本?6本?5本?・・・もう本当にわからないんだ・・・。」


 「どうやら、少しマシになったようだ。」


***


ウィンストンの最後の拷問は彼の一番のトラウマの根源で脅威的な存在だった。

 彼の大嫌いなネズミの入っているゲージの入り口をウィンストンの顔でふさぐ。彼とネズミを隔てる仕切りが一つ、また一つと取り払われる度に飢えたネズミが真っ先に彼の顔を目がけて襲ってくるのだ。

飢えたネズミは一分で人の顔を喰らい尽くす。


この言い伝えを知っていた彼は恐怖で自我を失っていく。

 恐怖や嫌悪は自我を持つ証だ。彼は限界だった。彼はやがて絶対に裏切らないと誓った愛する恋人の名を叫び続ける。 

「ジュリアだ!ぼくの代わりにジュリアにやってくれ!ジュリアに!ジュリアジュリアジュリアジュリアジュリアー!!!」
ついに愛する人を裏切ることですべてを手放してしまったのだ。自分とジュリアとの愛が世界を変えるとも言っていた。それがどう世界を変えるのかは答えられなかったが、愛だけは守り続けていた。しかし、自分には代えられなかった。

 1984に背いたものは、思考をビックブラザーこそがすべてだと教育されてから処刑される。ウィンストン、そして共に別々な場所で拷問にかけられたジュリアも例外ではないだろう。 

 最後にはトンネルの中にいるような、暗い闇で音が共鳴し合う中、甲高く叫ぶ女の声に似る音が混じり響いていた・・・。





壮絶な拷問シーンを観て

この音が舞台というある意味逃げ出すことのできない中、観続けることしかできない観客の恐怖を一段と煽っています。

正確にはこのあとにも話が少し続きますが、私は拷問の十数分で精神がいっぱいいっぱいになってしまい、個人的にはエピローグはフィクションがフィクションであると認識する小休憩な時間となり、しばらく放心していました。


最後のネズミの拷問シーンではウィンストン役の井上芳雄さんが客席に向かって


「なんで見てるんだよ!見てないで(拷問を)やめさせろよ!」


と訴えるように必死に暴れて叫ぶのですが、これは監視という意味でテレスクリーンで見ている何者かに言っているのかもしれないし、本当に私たちに言っているのかもしれないし、と若干混乱したりもして。

ただ微動だにせず観続けているだけの自分が何だか党側の人間になった気分もあって、観客も少し拘束されている感じを味わったのではないかと思います。

私は結構しんどかったです。一瞬こちらを監視されている気分になりました。


拷問は劇中で101号室と呼ばれる真っ白で強い光の放つ独房で行われました。

おそらく最前列の人には鮮血や井上さんの苦痛の表情などがよく見えていたと思います。

私も前列に座っていて、客席まで光が届いていたので、目や耳を覆い隠しながら見るお客さんも見えました。私が見える範囲では全員が井上さんを注目していたし、あの状況でリラックスできた人は一人もいないでしょう。

頭の中では全力でツッコミを入れることであえて作品を切り離すようにして見たりして、感情移入は難しかったです。というか出来ない!



事実を事実と認めるには


ウィンストンの日記を書くという行為や、党で真実省(新聞、映像、音楽などの歴史記録を管理する)に属するウィンストンの仕事「新聞などのデータの改ざん作業」などにおいては、私も考えることがありました。


それは

どんなことでも記録を残さない限りは事実が事実ではなくなってしまうということ。


ウィンストンはある個人のデータを跡形もなく消していき、その人の名前や個人情報はもちろん、顔写真など全てを消していきます。

党の住む市民はこうした二重思考や支配環境によって、自分の中にあるその人の記憶さえも曖昧にさせられ、いつしか個人の存在という事実そのものを消され、記憶に残っていることがあり得ないという意識に変えられてしまうのだと思います。


誰かが亡くなったとき、この世にいなくても私たちの記憶の中にずっと生き続けている。


と思うことはあります。しかし舞台を見ている最中だと、知っている人が私だけだったとしたら、個人の証明はどこでなされるんだろうと考えてしまいました。


現に、私も一番小さな頃の記憶で1歳のときに今は亡くなったおばあちゃんからイチゴをおねだりして貰った思い出が本当にあったことなのか、私が記憶を作り出したものなのか、曖昧なところがあります。確か母もそう言っていたので事実だろうと思うだけで。

人は忘れていく生き物だから自分ひとりの記憶では自信がなくなっていくのです。

日記で残す方法もありますし、その日起こったことやその日に思ったことを自分ではない何か(誰か)と共有することが事実である証になるのだと思いました。

もしかしたら時に次世代を生きる人にとっても、今を生きる私にとっても良いヒントになり得るかもしれません。



思考を止めることは未来をなくすことだ


未来の人たちのために日記を残そうとし、党の独裁政権を覆すために行動を起こそうとするウィンストンに対して、彼と愛し合う時間さえあればいい、今の自分たちの存在だけでいい。とジュリアが意見するシーンがあります。


そのときにウィンストンが

未来をみないことは死人と同じだ。」

と言います。


おお、なんて強烈な例え・・・。ですがそれはその瞬間に過去になる今だけにすがって、それだけを見続けて変化を求めない生活をして思考を止めているのは生きているとは言えるのか?と私も疑問を抱きました。

今を一生懸命生きる人は明日やその先の未来の自分や周りにポジティブな成長を信じて生きていきます。単なる「現状維持は後退だ。」だと言っているようにも聞こえます。


こう考えると今をより良くするために、次世代のために研究を続けたり社会に貢献している人が生き生きとしている理由もわかります。そして変わらないように見える幸せも、ほんの少しの変化があって“変わらず続いていく幸せ”になっていくのだと感じました。


わからないと言いながら、幸せについて語る私。


感想長くなっていますが、あと半分ほど続きます。(読んでくださった方にスタオベしたい)



制限された世界で失われていくもの


また「ニュースピークの諸原理」も恐ろしい考えでした。

ニュースピークは党にとって良くない思想を排除するために語彙や単語の意味を制限し、政治的・思想的な考えを市民から奪う言語のこと。

これが普及したら、そもそも考えることを止めるので、反抗的な態度をとらずに絶対忠実の従属関係が築けるのだそうです。言論・思想の自由の剥奪です。


なにこれ、めっちゃこわい。


ここまで極端だとわかりやすくて、私の今いる環境を考えても、1984の世界が最悪だと感じます。

ですが、ウィンストンやジュリアなどの一部を除いて1984に生きる市民は不自由で窮屈だとも、不満にも感じる様子もなく、むしろ幸せそうに見える。

完全に受け身の生き方をするのが楽なんでしょう。

市民たちがどこまで自分の考えを持つことを許されているのかわかりません。

安定した生活の魅力、不安定さ、心の揺らぎが全くない世界が幸せだとする考え方が正義だと植え付けられている感じがしました。(このことはプログラムの演劇芸術監督の宮田慶子さんと小川絵梨子さんの対談でも話されています。)



現代における支配下の環境


こういった支配下の環境って、現代にも存在します。

例えば、憲法や法律に基づく決め事に従って生きる私もある種の制約された環境に居ると言えますし、すごく身近な例は


「赤信号では絶対に横断歩道を渡ってはいけない」

ということ。


2、3歩で歩けてしまうのでは?!と思うところでも、人っ子一人、車も何も通っていないところでも律儀に停止している自分をたまに

「何もないところで、突然車が瞬間移動して走ってこない限り事故らないよな・・・なぜ、私は、止まっているのだ。

と思うときがあります。

そんな状況ではなくても平気でバンバン赤信号渡り切る人、絶対普通に渡っても時間のロスしないでしょ、と思うくらい無理やり渡ろうとする人もいて、それはさすがに危険だし、うわぁ・・・。と思いますが

あまりにも多くの人が赤信号を渡っているのも見るとルールを守ろうとしている自分のほうがおかしいのでは、と思うことも少なくないです。

マイノリティーよりもマジョリティーのほうが正しいという思考です。


<赤信号 みんなで渡れば こわくない> というような赤信号問題は思わぬ事故につながる可能性がゼロとは決して言い切れません。

運転する気持ちがわかると突然何を仕出かすかわからない人間の行動って何をしなくても大体こわいので、私はこれからも渡らないに徹しますが

逆に「ルール、ルールと言っても地球にはもともと決め事なんて何もなかったんだから、何であれこれ決められなきゃいけないんだ」と感じることもあって

1984ではなくても私が生きる場所に、日々ある程度の支配に従い、反発し、を繰り返して生きていると感じるきっかけにもなりました。


そして自らの命や大切な人の命を守るために、あらゆる秩序を守るために制約は必要なときもあって、決め事を作ることで自由が生み出されるのだろうとも思いました。

限度はもちろんあります。1984みたいになったらたまったもんじゃないです。


ちなみに例え話で話を進めようとしたら、話が逸れて焦ってます。



「2+2=?」極限状況で揺らぐ人間の心

続いて、「2+2=4」の認識を崩される拷問シーンとこの世に絶対などないんだと思わされるウィンストンのジュリアへの裏切り。

スパイとか闇の刑事尋問で拷問して自白させるドラマ・映画シーンがあるけど、それを詳細に限界突破するところをみせたという感じ。つらい、酷いといった感想もあるけど、人間の弱さや脆さを感じるシーンでした。

でも別にウィンストンだけが意思が弱いと思いません。

常人には考えられない境地に置かれて、人間の三欲を満たすとかそういう次元でもないときに考えられることなんて限られているからです。


ウィンストンの拷問中に

どう見たって4本は4本だし、それ意外にどう答えられるんだよ!

と冷静に思えた観劇中の私は幸せ者です・・・。まぁ、でも私は拷問にかけられますね。見たままに答えられるのは良い。とってもばかみたいだったけど幸せ者だったよ、そのときの私。


そんな私は数字の拷問より以前に抗う気持ちもなければ戦意消失していると思うので、自分の保身のために愛するジュリアを差し出したウィンストンも、何だか絶望とか単に裏切りという目で見るよりかは

「やっと終わった・・・。」

という小さな感想しか沸いてきませんでしたが

今、こうしていろいろなことを思い巡らせているのも、解放された心を許されているからなんだと思っています。

だけど

私が世界で一番好きな人と同じ状況に遭ったら?

なんてif話は放棄したい。

考えをやめることは死人だと豪語しておいて、考えることを諦めたい。私は自分を守るから相手も自分自身の保身を守ってほしい!



井上芳雄さんの役への理解

これほど観る側もエネルギーの入る作品なので、演じる役者さんも相当大変だったと思います。

主演の井上芳雄さんは自身のWeb連載コラム『井上芳雄 エンタメ通信』101号室のシーンで思う、人間の弱さでは拷問シーンについて語っていました。


鉄の椅子に座らされて、電気を通されるシーンでは、ショックで体がビクッ、ビクッと震える動きの抑えようがなくて、毎回椅子に体を打ちつけ続けます。終わったら背中がバキバキになっているくらい痛いのですが、それ以外のやり方も分からないから、無我夢中です。(井上芳雄)


私は苦痛を共感してしまうと絶対耐えられないと思ったのでどこか感情のスイッチを切って観ていた部分がありました。

そうしたくなるくらい井上さんの演技は極限の痛みを感じさせ、拷問される人間を体現しているように見えました。

また壮絶なシーンだけではなく、劇中ウィンストンとジュリアのラブシーンで井上さんとジュリア役のともさかりえさんがめちゃくちゃキスするところは唯一の癒しみたいに感じる個人的に安らかなシーンで

ウィンストンが(きっと言葉を制限していたために)「愛している」と言えなくて、どう愛情表現を言葉にしたらいいかを純粋に悩んでいる異様な光景も表現しきっていて素晴らしかったです。


こちらのコラムも読んて頂けるとわかるように、井上さんは稽古期間に役作り、役への理解に相当悩んだようです。

役者がいちばんに役を理解しなければ、舞台が一気に冷めてしまうし、フィクション以前にニセモノ感を漂わせてしまいます。しかもこの戯曲の非日常的世界観が一層読み解くことを難しくしていて。


演出の小川さんも、稽古が始まる前に「分からないところが多すぎる」と言っていました。それで最初は、俳優同士で『1984』の世界が本当に幸せなのかを討議する模擬裁判のようなゲームをしたりして、台本の読み解きから稽古が始まりました。(井上芳雄)


こういうところから緻密な芝居作りをしていたと知り、一つの作品にかける本気度がうかがえたし、何より井上さんや小川さんやも最初は分からなかったことが嬉しかったです。分からないの私だけかと思ってた。

このシーンでウィンストンはどう思ったのか。この行動をどういう感情があって起こしたものなのか。

言動一つ、感情一つで物語の方向性が変わっていくことを理解するからこそ、綿密な稽古があって、私が見ることができた舞台があるんだなと思うと、演劇にのめり込まずにはいられません。


それから舞台には子役が一人出演していて、その子はこの作品をどう感じていて演じていたのか、かなり気になりました。どう気持ちだったんだろう。

子役だって意味の分からないまま演技は出来ないと思うので、役を演じられる子役が天才説は濃厚。

大人と一緒に子供達も稽古の話し合いに参加したのかな?



舞台化して出会った戯曲の世界


私は普段はほとんどミュージカルやコメディタッチの演劇しか見ないので、戯曲作品を見る機会は年に1、2回しかありません。それにシェイクスピアもストレートプレイでは内容を理解することが難しいと先入観で思ってしまいます。

でも、この舞台では様々なことを考えました。

私はほとんどお芝居を通すことでしか戯曲に触れませんし、社会的・政治的・思想的なことを考えるといっても、自分の経験以上のことを考え、分析する力は未熟です。

だから最初は意味不明で、ああこれは感想なんて書けやしないとも思って。


今回のように私の興味の範疇にある演劇に絡めて戯曲を知ることで、わからないなりに考える楽しみがあると気づいたのは嬉しい発見です。

そして「わからない」ことはアウトプットして理解するということも。

舞台は見るまでにチケットを取ったり、会場まで行ったりと、いくつかの段階を踏まなければいけないので、いつでも・すぐに見ることは出来ません。

その代わりにやっとの思いで観た生の衝撃と人と人で受け取れる熱量など本や映像にはない気持ちになる。好きになって早5年になる今でも、もっと深みにハマっていける演劇の世界はやっぱり素敵な世界なんだと思います。



新国立劇場 開場20周年記念
『1984 Nineteen Eighty-Four』
原作:ジョージ・オーウェル
脚本:ロバート・アイク、ダンカン・マクミラン
翻訳:平川大作
演出:小川絵梨子
出演:井上芳雄、ともさかりえ、森下能幸、宮地雅子、山口翔悟、神農直隆、武子太郎、曽我部洋士、堀元宗一朗、青沼くるみ、下澤実礼、本多明鈴日
上演時間:2時間(休憩なし)
公式サイト:新国立劇場 演劇|1984




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