書評/三山喬『ホームレス歌人のいた冬』 二つの世界の狭間から

2008年、朝日新聞の単価投稿欄「朝日歌壇」に突然現れ、9か月で28首という驚異的な採用率で瞬く間に注目の的となり、その後、煙が消えるかのように投稿をやめてしまった歌人がいた。

(柔らかい時計)を持ちて炊き出しのカレーの列に二時間並ぶ

公田耕一という「詠み人知らず」ならぬ「読み方わからず」な名前、そして何よりもインパクトがあったのが住所欄に『ホームレス』と書いていたことだ。ホームレス歌人公田耕一は一躍、朝日歌壇のスターとなり、そして突然姿を消した。このホームレス歌人の正体に迫るノンフィクションである。

著者は朝日歌壇の選者や、公田に影響された歌を投稿した人などに会って話を聞く。その一方で、公田がいたと思われる横浜のドヤ街・寿町を訪れ、そこの住人たちに会うことで、公田の足跡や面影をたどる。

興味深いのが、朝日歌壇の読者たちと寿町の住人では、公田の歌に対する評価が全く異なることだ。

朝日歌壇における公田の歌は選者からも読者からも、かなり高い評価を受けている。路上生活の悲哀や郷愁を、高度な短歌のセンスで表現している。特に、五七五七七のリズムに完璧に落とし込んでくるスキルには舌を巻く。

一方で、寿町の住人達に著者が公田の歌を見せても、あまりいい反応は返ってこない。路上生活者にとって当たり前の日常を書いてるだけで、何がそんなに面白いんだ、と。

朝日歌壇と寿町での反応の違いに、僕はこの二つの「世界」の間の断絶を感じてしまう。

著者は公田の歌にかなりの教養を感じることから、公田は元々ホームレスだったのではなく、ごく最近ホームレスに「転落」したのではないか、と考えていた。朝日歌壇の読者にとって公田は、もともと「こちら側」の住人だったけど何かのきっかけで「あちら側」に行ってしまった人だからこそ、彼は朝日歌壇の読者たちを惹きつけるのではないか、と。

著者の推測に対して、朝日歌壇の選者である永田氏は「あちら側、こちら側、という考え方は嫌い」とくぎを刺す。だけどやっぱり、朝日歌壇と寿町では、公田の歌の見え方が違う。きれいごとでは隠せない断絶がこの二つの世界にあるように、ぼくにはどうしても思えてならない。

そして、この二つの世界の仲介者として現れたのが、公田だったように思える。

横浜のホームレスの中には、寿町の雰囲気を嫌って距離をとる者たちもいる。著者は取材の中でいくつかそういう人たちに出会い、公田もまたそうだったんじゃないかと推測する。

朝日歌壇の世界から、彼らになじみのない路上生活の世界へ、何かのはずみで「転落」してしまい、かといって寿町に染まることもできない。朝日歌壇の読者たちとは違う世界に行ってしまい戻ることはできないけれど、歌を投稿することでかろうじてつながりを保ち続ける。そんな二つの世界の狭間にいた人物だったのではないか。

そしてそれは、実は著者自身にも当てはまることである。かつては朝日新聞に在籍していたマスメディア側の人物でありながら、作中でライター家業の不安定さを吐露し、明日は我が身かもしれないと公田たちホームレスに自分を重ねる。思い切って横浜スタジアムで一日だけ野宿をしてみるが、結局自分は明日には家に帰る「なんちゃってホームレス」じゃないか、と自虐する。彼自身もまた、「新聞・マスメディア界」と寿町の狭間にいて、どっちにも染まり切れなかったのだろう。

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