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「歴史感覚」の消滅と「アイデンティティ」の消失

世間があまりに「忘れっぽく」なっている?

 最近、いやこの4,5年だろうか、非常に怖ろしい事態が進行しているような感覚に陥る。「社会」とか「世間」とかに、明確な実態はないはずだけれども、はっきり言うとその社会が、世間が、「ディストピア」化しているのではないかと。

 日本経済が低迷している、日本が少子化に突き進んでいる。その手の「暗さ」を感じていたのは、そのさらに以前のことだ。確かに問題ではあるかもしれない。私の人生にも影響してくる。ただし、それだけならある種、曖昧模糊とした「社会問題」として片づけられる。たとえ貧しくても幸せになれる。探せば稼ぐ手立てはある。社会全体として子どもが減ろうが、我が子は生める(私は男なので「産め」はしないが)。最悪、日本から海外に移住する手だってなくはない。

 が、もっと根深いところ。マクロな問題ではなく、ミクロでありながら総体としての話として機能するような深刻な事態が進行しているのではないか、と次第に思うようになってきた。それは日本特有というより、世界中でかもしれない。

 正確にはどう主語を立てればよいのかわからないが、それをいったん「世間」として語ると、ちょっと世間が「忘れっぽく」なりすぎじゃないか?
 昨日の話が、今日にはないことになっている。立てられた計画が、明日には撤回されている。しかもそれが「問題」として認識されない。……これは正気の沙汰であろうか?

「歴史」が持つ連続性

 イデオロギー的な話をしたいわけじゃない。私は保守でもリベラルでもない(というか、別にどう思われてもいい)。ただ、「歴史感覚」が失われているのではないか、という危惧は日に日に増していく。ここでも主語は「世間」……いや「個人」からである。個々人の総体が世間であるからして、一先ずそう言ってよい。

 ここで言う「歴史」とは、何も「従軍慰安婦問題」がどうこうとか、「広島・長崎への原爆の記憶」がうんぬんといった話ではない(それも関係するかもしれないが)。たとえば、簡単に人が言う「黒歴史」というようなニュアンスだ。

 当たり前すぎるほど当たり前のことだが、人が生きる、というのは、日々、時々刻々、常に生きている、ということだ。1992年に生まれ、2002年から2004年の間、私は死んでいましたが、2005年以降、生まれ変わって今は楽しく生きています――そんなことありえない。要するに、歴史(=人生)には、連続性があるのだ。断絶などない。

 それは当然、人生の中でつらい時期もあるし、振り返ると幸せだったなと思う時期もあるだろう。だが、黒く塗りつぶせる「歴史」などない。時間の不可逆性の中で、「歴史」は蓄積されていく。社会にとっても、個人にとっても。「歴史」とはそういうものだ。

修正不可能な「人生」

 それが「歴史」とは、「事象」や「事件」のことだと捉え、自由自在に「解釈」する余地があるかのように思われている。

「あのときのあのことがあって、生まれ変わりました!」「ある人との出会いが、私の人生を変えました!」といったエピソードは、世間で引きも切らないが、それは人生の一点にスポットを当てているにすぎない。
 実際には、その人の人生は、その前にも後にも連続性を持っている。もちろん、エポックメイキングな出来事、忘れられないくらい印象深い人、というのもあるだろう。だが、それがその人のそれ以前の人生を否定することにも、それ以後の人生を肯定することにもつながらない。
 いま現在のその人は、連続した人生の上にいるのであって、「解釈」の余地はない。

 これが履歴書なら、「解釈」の手によって、都合の良い事実を拾い上げ、都合の悪い事実を抹消することで、立派なものに書き上げることができるかもしれない。しかし、人生とは「解釈」可能な結果の総体ではなく、進行形の「プロセス」なのだ。履歴書ではない。

 時間は「未来」に向かって進む。では「過去」は単に終わったことなのか。いや、人は「過去」の上に成り立つ。そして死ぬまで、常に「プロセス」の渦中にいる。先にある「目標」を掲げて「今」を生きているように見えても、必ず人は過去からの延伸上にいる。

いつか「アイデンティティ」が崩壊する日

 あまりにも当たり前のことをくどくどと書いてしまったが、そんな当たり前が通用しなくなっているのではないか。

 吐いてしまった失言、怠った努力、思わぬミス、他者に対する過ち……不都合となった過去も、もしかしたら「忘れて」もらえるかもしれない。「忘れる」こともできるかもしれない。忘れることは大切でもあるが、いくらなんでも忘れすぎではないか。

 やはりインターネット的な不連続性、修正可能性が影響しているのだろうか。かつてインターネットに期待されたことの一つとして、「アーカイブ性」があった。火事が起ころうと、台風が来ようと、地震で倒壊しようと、何の影響も受けずに膨大な情報を貯蓄できる機能性だ。
 しかし、現実は「リアルタイム性」に偏重していった。そこには、連続性の希薄な「今」があるだけで、ボタン一つで、昨日のことも、一カ月前のことも、一年前のことも、簡単に抹消できる。「歴史」の連続性などない。いくらでもパッチワーク可能な張りぼての轢死の束でしかない。

 では、人生の蓄積で成り立つはずの人が、その連続性を失ったらどうなるのか。端的に言ってアイデンティティを喪失するのではないか。
 足で歩き、会話してコミュニケーションが取れ、読み書きができる人がいたとする。「いつからですか?」と尋ねれば、「1歳で歩けるようになり、3歳には発語し始め、7歳でひらがなを読んで書けるようになりました」と、ここまでは答えるだろう。しかし、その先は……? 連続性を自らパージした人が、いま現在の自分自身について満足に理解できるわけもない。

 話を冒頭へと戻していこう。個人の総体が世間であるなら、人生の連続性を失った個人の総体とは、歴史の連続性を失った社会である。
 ここで言っているのは、何も「江戸時代の文化を思い返せ!」とか、「明治からの伝統を守れ!」とか、そういう類の話ではない。連続性への意識、すなわち「歴史感覚」が失われつつあることへの漠然とした恐怖感だ。

 世間が昨日のことも思い出せず、当然のこととして責任を持てなくなったのなら、こんなに信頼の置きどころのない社会もない。これは杞憂だろうか、それとも現実の危機だろうか。


――あなたは今、幸せですか?
そこそこ幸せですよ。
――あなたは昨日、何をしていましたか?
何をしてたっけな~。
――あなたは一カ月前、何をしていましたか?
何をしてたっけな~。
――あなたは一年前、何をしていましたか?
何をしてたっけな~。
――あなたは誰ですか? 

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